遊びをせんとや生まれけむ(プロフィール用エッセイ)
遊びをせんとや生まれけむ
「遊びをせんとや生まれけむ」。これまで何度かこの言葉を目にしたことがある。平安時代末期に編まれた、『梁塵秘抄』に収録されている俗謡中の言葉だそうだ。この後、「戯れせんとや生まれけん‥‥」と続く。此度の文芸誌創刊号に参加するにあたり、詩やエッセイを書くことも、本作りを手伝うことも、みんな「遊び」の一種なのだと思った時、この言葉が脳裏に浮かんできた。
当り前のことだが、これまでの人生で、遊ぶことが嫌いだと言う人には会ったことがない。振り返ってみれば、私などは遊んでいてはいけない時に遊んでばかりいた。
読書という「遊び」が好きだった私は、そもそも「遊び」とは何だろう?との興味から、歴史学者ヨハン・ホイジンガの著作『ホモ・ルーデンス』(「遊ぶ人」の意)や、思想家ロジェ・カイヨワの著作『遊びと人間』を、学生時代に読んでみたりした。もっとも今では何が書いてあったのか殆ど忘れてしまっている。本棚の奥から『ホモ・ルーデンス』を引っ張り出してみると、裏表紙の内容紹介文に、「遊びのなかで、遊びとして、〈文化〉は生まれ、発展した‥‥」とある。そういうことだ。これでもういい。再読する手間が省けた。さあ書を捨てて遊びに行こう!!???
以後も「遊び」について書かれた文章を幾つか読んだ。それらも内容は殆ど覚えていないが、一つだけ、「遊びは〈‥‥のために〉を持たない」という言葉はよく覚えている。「遊び」は、「遊び」以外の何かのために遊ぶのではない。「遊び」は、「遊び」の外側にある何かの目的のために遊ぶのではない。そんな意味だった。
それでも敢えて〈‥‥のために〉という言い方をするなら、「遊び」は「遊び」それ自身のために遊ぶ、とでも言う他ない。「遊び」は、遊んでいる時の、楽しさ、面白さ、喜び、ワクワク感、充実感、達成感、そして心地良く、時にはしんどい身体感覚等を味わうことそれ自体のために遊ぶ、ということだ。それは幼児や子供が無心に遊んでいる姿を見れば納得できるだろう。
遊びは幼児の身体の成長を促すが、だからと言って、幼児は身体を成長させる〈ために〉遊んでいるとは言えない。また、子供は他の子供と一緒に遊ぶことで社会性を身に着けてゆくが、だからと言って、子供は社会性を身に着ける〈ために〉集団で遊ぶのだとは言えない。それらは幼児や子供を外側から観察した時に、結果としてそのようにも見えるということであって、無心に遊んでいる時の幼児や子供自身に取ってはどうでもいいことだ。
しかし大人になるにつれ、「遊び」に〈‥‥のために〉が入り込んでくる。曰く、たまにはストレス解消〈のために〉遊びに行こう。曰く、リハビリ体操の退屈さを減らす〈ために〉遊びの要素を取り入れよう。勿論これらは結構な事なのだが、「遊び」の本来性から見れば、これらは遊びの「不純」な姿と言えなくもないのだ。
以上、「遊び」の云わば「純粋モデル」について書いてみた。しかし私は、「だから皆さん、子供のように純粋に、無心に、書いたり読んだりして遊びましょう!」とばかり言いたい訳ではないのだ。
つまり、そうは言っても、我々は既に純粋無垢な幼児の世界から、遠く離れた大人になってしまっているではないか。大人の世界は、私達の社会は、〈‥‥のために〉の連鎖と変転で出来ていると言ってもいいだろう。「遊び」はしばしばそれらの邪魔となるが、また時には促進剤となって来たのだ。我々は「遊び」と〈‥‥のために〉が絡まり合った世界を作って生きて来たのだし、それはそれでいいではないか。結局は自分にそう言いたいのだ。
再びそうは言っても、「遊び」の中に〈‥‥のために〉の比重が大きくなり過ぎると、今度は「遊び」があまり面白くなくなってくる。面白くないのなら、その遊びは止めといた方がいいのだが、それがままならない時も人生にはしばしばある。曰く、やれやれ明日の日曜日は取引先との付き合い〈のために〉接待ゴルフだ‥‥。
私はどうして詩やエッセイを書いて遊ぶのだろう。勿論、書くことや読むことの悦びそれ自身〈のために〉。
それから、私の拙い詩やエッセイを読んでくれた他者への、ささやかな承認欲求〈のために〉。これは正直に言っておかなくてはならない。
もう一つ。社会的な次元では、地域の文芸ひいては文化の振興に僅かでも寄与する〈ために〉。これは空疎になりがちな大義名分なのかも知れません。でも、ちょっぴりは、マジにそう考えているのです。
あ、そうそう、高齢者が多い参加者達の「ボケ防止!」〈のために〉。やっぱりこれは外せませんねw。
(了)
*もう一つ、過去にnoteに書いた詩作品で参加しました ↓
*梁塵秘抄より
遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さへこそ揺がるれ
*内容をほとんど忘れた参考文献