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【小説】水彩紙、赤

対(前編):「水彩紙、青」


《水彩紙、赤》

僕はあんたの小説の中で生きたい。
その繊細で青の淡色のような、曖昧ながらも夏のような、そんな世界で生きられたらーー僕もきっと少しは愛されていられるのだろう。天音さんの原稿用紙を彩るのは小さくて癖のある字なのに、明朝体で書かれたような気もしてしまう。初めて読んだときから、そう、図書室で高崎天音の名が目にとまったときから、僕はずっとファンでいる。僕を再び創作の世界に連れ込んだのは、紛れもない、天音さん、あんただったから。

何を考えているかよく分からないと言われる。
分からなくて上等だ。間違えてもお前らなんかに、僕を理解されて堪るもんか。僕からすればお前らのほうが、余程理解ならないな。教室は狭い水槽みたいだ。
高校に入学した。別に中学校と大差なかった。人と極力関わりたくないから帰宅部にして、でも皆が帰る時間は避けて、図書室にいる。たまに文芸部が奥の方で活動しているのを知っていた。文芸部には少し揺らいだけど、やっぱり怖くて何もしていない。自分が創ったものは、自分が読むだけでいい。僕の文章は誰かに読まれるようにできていないのだ。読んだ人の誰も、僕の書きたいことが分からないのだから。
毎日二時間くらい図書室に入り浸っていたら、四月を乗り切る前につまらなくなった。どうも“皆様”の脳に合わせられた本たちは、仲間の大切さや学校の素晴らしさ、軽率に愛をばら撒くような恋愛なんかを語った。ここにすら僕の居場所は無いように思えた。
「なぁ、お前、文芸部入る気無いの?毎日ここに通ってるくせに」
毎回のように文芸部の顧問に声をかけられるが、毎回丁重にお断りする。教師と生徒の関係であれ、こんな口の利き方をするような人の率いる集団に馴染めるとは思えない。どうして文芸部顧問になったのか、それともなるように言われたのかは分からないが、引き受けてしまったことが疑問な程に、明らかに体育会系の自称熱血タイプなのだ。ただ毎回毎回聞かれるもので、僕は離れた場所から文芸部の人たちを傍観するようになった。図書室で活動している割に賑やかで、やっぱり無理だろうなと思う。僕は到底読み進めもしない本を逆さに持っていることにも気付かず、オブラートくらいの薄さで仕切られたこの空間を泳いだ。
一番奥の窓際の席には、いつも背の低い女の子が座っている。長い黒髪をポニーテールにして、少し気怠げに猫背気味。顔までは見えないけれど、ひとり賑やかさから離脱している姿に、僕はなんだか安心するのだった。

五月の連休前になった。最早文芸部の観察の為に図書室に通っている僕は、図書室に入ろうとしたとき、いつの間にか入口に小さな机が置かれたことを知った。手書きのポップやカードと何冊かの本が並び“文芸部のオススメ本”と題されている。こんなことも活動内容なのか、と思いつつざっと目を通した。仲間、青春、恋愛、学校、家族ーーカラフルな文字が並ぶのを見ていて、また世界の端に置き去りにされた気になった。いっそ今日は帰ろうかな、なんて思いながら目を逸らしたその先で“孤独な葛藤”というキャッチコピーがじっとこちらを見ていた。
「孤独な葛藤……?」
その小さくて癖のある字をなぞってみた。下に続く感想にも何気なく目を通す。
“結局私は誰とも分かり合えないのだ、と痛感してしまった。この本の読了後には、からだの大事な部分を抉られたような虚しさが残る。悪だって正義だって誰にも決められたものではないし、誰かの大切になれるかだって何の正解も無いのに、どうして私は誰かと分かり合おうとしているのか、自問してしまう。自分と対峙したいときに、良ければ読んでみてください。文芸部三年  高崎天音”
「……この人、本を褒めてるのか貶してるのかどっちなんだろ」
読んで虚しい気持ちになるなんて書いたら、誰も読まないだろう。他の本とは違って表紙の真新しいそれを手に取って発行日時を探した。二十年以上前の本なのに、ページに癖もない。やっぱり誰も読んでいないのだ。そんな本を薦められたって、誰も読まない。誰も、誰も、僕以外にはきっと誰も!
僕はその本を借りて図書室を飛び出した。文芸部の活動が始まる前に校舎を出たかった。あのカードを書いた高崎天音先輩が誰か分からない以上、見つかる前に居なくなってしまおうと思った。まるで盗みをしたような後ろめたさを抱えながら、僕は借りたばかりの本をリュックにしまう。貸出手続きの際に例の文芸部顧問に、カードはコピーがあるから持って帰っても良いと言われたのを思い出して、震える手で無彩色のカードを持った。なんだか泣きそうで吐きそうだ。内臓をぐちゃぐちゃに掻き回されたようで、何度も転びそうになりながら階段を駆け下りる。言葉が僕の繊細な部分を素手で撫でていく。ざらざらしたものが脳内を支配して、わっと叫び出したくなる。なんだ、なんなんだこれは、どうしてこんなに僕を掻き乱す?今まで正常に保ってきたものを何故あれだけの言葉が崩せる?下駄箱で耐えられなくなって制服のネクタイをゆるめた。肩を上下させて呼吸をして、漸く気付いた。
あの人は僕と同じなのだ。
理解されなくて、分かり合えなくて、誰かと本音を共有できることが無くて、でもそこらの人々とはやっぱり話せないーー孤独な葛藤。あの先輩もきっと沢山、僕みたいな思いをしてきたに違いない。

連休明け、僕は本を返すついでに、ついに文芸部顧問に声をかけた。負けたみたいで癪だったが、それより“高崎天音先輩”の書くものを読んでみたい気持ちが勝った。彼女が紹介したあの本に僕はまんまとハマり、連休一週間、毎日その本を読んだ。感想を事細かくメモして、彼女はどこでどんなことを思ったのだろうと考えていた。彼女が好きなものを好きになるなら、彼女の書くものはもっと好きになるだろう。それは読まねば勿体無い。
「入る気になったかそうか!じゃあ適当に自己紹介してきてくれ……っしゃ部員が一人増えたぞ勧誘成功〜」
「……聞こえてますよ」
なんだか鬱陶しいを通り越して少し面白くなってきた。僕は顧問につられるままホワイトボード前で名前を呟く。
「今日から入部した中江……中江柚貴なかえゆずきです、よろしくお願いします」
「中江君ね!ウチは部長の中西雅なかにしみやび、よろしく〜!」
部長さんのノリの軽さに驚愕しつつ、そういえば、と僕は窓際の席を見た。あの女の子は今日は居ないみたいだった。
「とりあえず今日は活動見学する感じで色々見て行ってよ、疲れたら本読んでても良いからさ!てかデカいね中江君〜」
部長さんの明るさに戸惑うと同時に、いつも聞こえていたのはこの人の声だったのだと確信した。僕の背の高さに笑う部長さんは、隣に並ぶ恐らく彼女の友人たちに「アマちゃんの倍はありそうじゃん?」と言った。そこにいる人たちが皆「そうかも」と流すところを見ると、どうやら“アマちゃん”は今日居ないようだ。
「アマちゃんはちっちゃいもんねえ。一年生と間違えられそうだもん」
カラカラと笑う部長さんたち。そこまで言われるとちょっと気になって、ご友人のことですか?と尋ねた。
「うん友達友達〜!この中で1番背が低いんだよ、だから一年生みたい……でも、雰囲気はすごく大人っぽいからねえ、間違えられはしないかもね」
「その人は、今日はお休みなんですか?」
「あ〜……」
部長さんはちらりと窓際の席を見た。その席は、いつもあの女の子が座っている席だ。
「休みだねえ。残念」
「……もしかして、いつも窓際に座ってる女の子が“アマちゃん”なんですか?」
「えっ、そうだけど、中江君アマちゃんと知り合いなの!?」
部長さんは一歩退いて僕を上から下までじっくり見た。なんだか良からぬ疑いをかけられている気がして、僕は慌てて首を横に振る。
「知り合いじゃないですよ!僕いつも図書室に来てて、その席に毎回座ってる女の子がいるなって思ってただけで!顔も名前も知らないし」
「そういうことかぁ……アマちゃんはねえ、すっごく美人さんだよ」 
言いながらホワイトボードを指差した部長さん。これも備品だから綺麗にしなきゃなんだ〜と言いながら、僕に濡れた雑巾を差し出した。僕は部長さんと並んで大きなホワイトボードを綺麗に拭いていく。彼女がこの作業をやらせた理由が分かった気がした。僕の身長だと背伸びや踏み台なしで上まで届くのだ。
「中江君は彼女いる?」
思いがけない質問をされ、手が止まってしまった。その質問は僕にはタブーだ。
「一応……?中学から付き合ってはいます、けど」
「マジか〜!じゃあアマちゃんに惚れないようにね?」
戯けたのかと思って笑おうとしたが、部長さんの目は至って真剣だ。そんなに美人ってどれだけだよ、と心の中で突っ込んで、愛想笑いをした。明るい人たちのノリにはやっぱりどこか届かない。
「……まぁ、大丈夫なんじゃないですか。ところで、アマちゃんっていうのはニックネームなんですか?」
「そうだよ〜天音って名前なんだけどね、フルネームは高崎天音。アマちゃんって呼んでるの、可愛いでしょ〜」
高崎天音。
また、臓器の場所がひっくり返った。ずっと知っていたあの女の子が実は先輩で、僕と同じような人間で、あんな惹かれる文章を書く人で、高崎天音先輩?いやいやとてもそんなふうには、と思いかけて、そういえば喧騒に参加する立場でなく傍観する立場の人だったなと思い出す。じゃあ、やっぱり辻褄が合うかもしれない。焦りをかき消すように、黒色に残るホワイトボードマーカーの跡を雑巾で擦った。黒色の跡は擦られて広がって、白がどんどん灰色に塗りつぶされてしまった。

気が早まって、ショートホームルームが終わった途端図書室に来てしまった。
文芸部も二日目になる。今日は高崎天音先輩に会えるだろうか?なんて、そもそも話せるかすら分からないのに、勝手に緊張して待ち焦がれている。
手持ち無沙汰で何も書かれていないホワイトボードを昨日のように雑巾で擦っていると、顧問が「高崎、久しぶり」というのが聞こえた。慌てて顔を上げると、背の低い、いつも窓際の席に座るあの女の子が、顧問に呼び止められている。間違いなく、あの人が高崎天音先輩なのだろう。
顧問が僕を呼んで、入部の挨拶をするよう促した。僕は彼女の真前に進み出る。彼女が僕を見上げて、目を合わせた瞬間ーー視界がぐるりと一回転したような気がした。
切り揃えているが無造作な前髪、とりあえず束ねたようなだらしない長いポニーテール。それに似つかわしくない真っ直ぐな瞳で、僕のぐちゃぐちゃになった内臓まで見透かされた気になる。孤独を背負ったようなつり目、白い肌、にこりともしない口元。隠しきれていない虚無感。彼女が瞬きをするたび、長いまつげに真っ黒な瞳が隠される。この人と関わってはいけないと、僕の脳が危険信号を出しているのに痛いほど気が付いていた。
「昨日入部した中江です、よろしくお願いします」
反射的に頭を下げ、彼女を視界から追いやる。彼女はその間一言も発さなかった。
ーーアマちゃんに惚れないようにね?
ああ。
僕はもう一生、高崎天音先輩のファンでいる気がした。

僕は段々と天音先輩と仲良くなっていった。早々に連絡先も交換してしまった。最初こそ言葉にしなかったが、きっと先輩も分かっていた。僕等はよく似た人間だということ。お互い聞かないけれど沢山の傷を隠しているということ。僕も天音先輩も、お互いにしか素を見せられないということ。
蓋を開けてみれば、天音先輩はよく笑う人だった。それも歯を見せて笑う。口を開けばすぐにおちゃらけて、かと思えば悲しそうな顔をしたりする。山の天気より表情がころころ変わる天音先輩を見ているのはなんだか楽しくて、それを知っているのは僕だけなんだと思うと嬉しくもあって、僕は皆から天音先輩が見えないように、覆い隠すように、いつも彼女の向かいに座る。今だってそうだ。
「君は結局、何を書くつくることにしたの?この間からあたしの小説を読ませろって言って持って帰ってるけど、小説でも書くの?」
背の低い天音先輩は意図せずとも上目遣いになって、僕は何回されてもそれに弱くって、どこか別の場所を見ながら言葉を濁す。
「あれは天音先輩の小説が好きだからで……僕には書けないので……」
「読んでみたいけどなあ」
どうしても声が出なかった。きっと僕が小説を書いても、天音先輩は理解してくれるしどんな夢も笑ったりはしないだろう。頭では分かっているのに、僕は未だ臆病なままだ。
「……じゃあ、詩とか書いてみる?」
何かを察したようなそのに、僕は机の下で強く拳をつくる。自分の爪が自分の手のひらに喰い込んだところで我に返った。
詩か。詩と言うと良い響きなのに、ポエムなんて言うと途端に恥ずかしく見られるのは何故だろう、なんて。自分が詩を書くなんてとても想像できず、僕はそんなどうでもいいことを考えてしまう。
「あたし、詩集も沢山持ってるけど、君が詩を書いたらそれを一番好きになるかもなあ」
「先輩?そういうこと、あまり言っちゃいけませんよ」
揺らぎそうになったのを必死で隠すが、天音先輩は無自覚かそうでないのか、またしても崩しにきた。
「君にしか言わないけど?」
冷静に考えたら天音先輩がこんな面を出せるのは僕の前だけで、そりゃあ他の人には言わないだろうけれども。それでも揺らいでしまう。いや駄目だ僕には恋人がいるからと苦し紛れの事実を反芻しても、いっそ天音先輩が僕の手を取って引き摺り込んでくれたら良いのにと思ってしまった。先輩の所為にして踊っていられたら。
「じゃあ詩を書きますよ」
ああ僕はなんて単純なんだろう。先輩は僕の言葉に目を輝かせ、嬉しそうに笑う。
「本当?出来上がったら読ませてね?」
「勿論ですよ、天音先輩の小説も読ませてくださいね」
「……ねぇ、その敬語、やめない?」
はっとして先輩の目を見た。試すようにこちらをじっと見つめて逸らさない。どこまで見抜かれているのだろう、息ができなくなりそうだ。
「やめません。あくまで後輩なので」
「あ〜、クソ真面目〜」
天音先輩の口元から真っ白な八重歯が覗いた。きっと無自覚なんだろう。もしかすると掻き乱されている僕のほうがおかしいのかもしれない。今日も窓際の席は僕と天音先輩の二人、また確実な秘密を積み上げて笑っている。この平穏も、もしかすると不穏も、この人となら生き抜けるかもしれない。

七月のある日。夏休みも目前で、全校生徒が早帰りの日。部活は休みで、天音先輩と会えることもない。なんとなく猫背気味に階段を降りてみてーーまた天音先輩のことを考えている。そういえば先輩に貸してもらった本があったんだよなと、栞を挟んだ文庫本を取り出してみた。数秒眺めて、まあ天音先輩を召喚できるわけじゃないけど、と思いながら靴を履いていると、後ろから声をかけられた。
「あの、栞、落ちましたよ」
その声に聞き覚えがあって、淡い期待をしながら振り返る。人がごった返す昇降口で、その声の主が誰かに突き飛ばされて僕のほうに転んだ。その拍子にその人の長いポニーテールを束ねていたヘアゴムが切れたのか、ふわりと髪が広がって甘い香りがする。
「大丈夫ですか……?」
手を差し出そうか迷っていると、その人がばっと顔を上げた。その瞳に、やっぱりそうだったか、という安堵を覚えた。推測が事実に変わり、僕は外しかけていた仮面を堂々と脱ぎ捨て彼女の手を取る。
「天音先輩。三年生の下駄箱は反対側ですけど」
途端に彼女が真っ赤になった。そんなに間違えたのが恥ずかしいのか、なんだか抜けてるところも嫌いじゃないのに、なんてぐるぐると感情が渦巻いて、ほんの少しだけにやけてしまう。お茶目な人だな。
「……君が栞を失くさなくて良かったでしょ」
「そうですね、ありがとうございます」
天音先輩に差し出された栞。それは恋人の由芽ゆめに貰ったもので、別に失くしても良かったのに。天音先輩に拾われたら、受け取らざるを得ないではないか。先輩はそんな僕の胸の内をつゆ知らず、栞に伸ばしかけた僕の手を俊敏にかわした。
「これ、返してほしかったら一緒に帰って」
意外な申し出だ。先輩は今日だって、僕の目を真っ直ぐに見て逸らさない。あんなに真っ赤だった頬はもう真っ白に戻り、僕の存在自体がその肌を濁してしまいそうにも思えた。さっきまで隣で靴を履いていた人はもうとっくにいなくなり、ここだけがブラウン管の中みたいだ。
「勿論ですよ、先輩」
当然僕は断れない。天音先輩の仰せのままに、僕は付き従う。

彼女が履いていたのは紺色のスニーカーだった。てっきりローファーなんかを履くのかと勝手に思っていたから、なんだか、予想の斜め上をいかれた気分になる。
「ねぇ、明後日には夏休みだね」
「そうですね……高校の課題って量多いですね、僕びっくりして」
天音先輩と並んで歩くと、まるで僕が先輩みたいだ。向かいに座るのは慣れても、隣で歩くのはなんだかくすぐったくて、まともに話せない。ちらりと天音先輩を見ると同じなようで、何か言いたげなのに言えず、言葉の破片を舌の上で溶かしているところだった。自分で誘ったくせに言えないんだなあ、でも、痛いほど、その気持ちは分かる。そして多分、先輩が言いたいこともなんとなく分かる。
「ねぇ先輩、夏休みも作品の読み合い続けますよね?」
「……ずるいね、君は」
先輩は違うほうを向いたまま呟いた。ポニーテールじゃない天音先輩を直視するのは僕も中々照れくさかったけれども、ちょっとからかってみたくて彼女の顔を覗き込む。
「待ち合わせは図書館で良いですか?あ、本屋も一緒に行ってみますか?」
「それ全部あたしが言いたかったことなんだよ、盗るなよ」
拗ねたように先輩は目を伏せて、僕はその長いまつげが透けるのを見た。途端天音先輩はなにか思い付いたように顔を上げる。
「じゃあ……花火大会も一緒にどう?」
ーーこの人は、どこまで分かっているのだろう?どこまで僕を見透かして、そんなことを言ったのだろう?
純粋に、天音先輩が花火をどんなふうに言い表すのかとても興味があった。でも、残念だが、しかし。先約は守らねばならない。由芽は他校で、その日だけで良いから!と懇願され仕方無く受け入れた花火大会。守らなければ申し訳ない。その日こそ別れようって言えたらいいのに、多分僕はまた言えない。臆病で。
「ごめんなさい、僕、その日は約束が」
彼女の顔が少し寂しそうに変化するのを見ていられなかった。ぎゅっと息が苦しくなって、僕はいつかのようにネクタイをゆるめる。
「先約があるなら仕方ないよ、図書館と本屋であたしは満足だから」
そして横断歩道の黒いところだけ・・・・・・・、僕等は無意識に選んでしまう。色んな制服が四方八方から集まってくるのを目の当たりにして、もう駅に着いてしまったのだと気付いた。
人が改札に吸い込まれてゆくのはいつ見ても面白い。これが全部僕と同じ歳くらいの人間で、これらの数だけ思考があって、その人しか知らない言葉がある。“皆様”はどんな本を嗜むのだろう。機械的に全員同じ本を代表に挙げたら面白いだろうな。そして僕と天音先輩だけ、あの本・・・を答えるのだ。そんな世界。傑作品は僕等だけでいい。
「あたし、こっちなんだけど、君は……」
先輩の声で現実に戻り、反対方向を指差しながら定期を取り出す。そしてふと大事なことを思い出した。
「「あ、栞をーー」」
声が重なった。二人して表情も重ねて笑った。先輩の手のひらに居座るそいつを拾い上げ、確かに受領する。ほんの一瞬手が触れて目が泳ぐ僕に、先輩は歯を見せてまた笑った。
「また連絡するね!」
そう言いながら自分と逆方向の改札へ歩き出した天音先輩は、あっという間に人波に紛れて消えた。
そういえば、手に一瞬でも触れてしまったんだよな。由芽に触れたことすらないのに。いっそあのまま握ってしまえばよかったかもな。なんて、僕は臆病だからできないけれどもーー。
まだ隣に天音先輩がいる気がして、そっと手を伸ばす。手を握ってみたらどんな反応をするのだろう。きっとあの彼女のことだ、こっちを真っ直ぐ見据えながら笑うのかもしれない。そこまで想像してなんだか口元が緩んだ。
「……可愛いなぁ」
こういうとき、身長が低ければ良かったのにと強く思う。僕みたいに人波より頭が突き出ていると、色んな人たちに表情が隠されないからだ。先輩くらい低くなれれば、どれだけにやけてもバレることはないのに。
ずっと目を逸らしていた自分の感情が、真っ向からやってきた。まるで天音先輩みたいに。
僕はどうも天音先輩に出会ったときから、彼女の好きな本にも彼女の書く文章にも、そして彼女自身にも、呆気なく惚れてしまったようだった。

もう夏休みも後半になる。夏休み明けには文化祭があるらしく、学校中でそんな浮かれたワードが聞こえてくるようになった。クラスの係は免れたし僕には関係ないだろうと余裕ぶっていたら、どうやら文芸部で全員参加の冊子を出すとのことだ。天音先輩の小説を読む機会が増えるのは嬉しいが、僕はあまり同級生に所属部活を知られたくなく、名前が載るのは避けたかった。そんな最中、またいつもの窓際の席で天音先輩と二人向かい合って、お互いの作品を読み合って、褒め合って、改善し合って、少し話をしていると、部長さんがホワイトボードに赤い字を連ねたのが横目で分かった。
“ペンネームでもいいよ!”
「ペンネーム……」
ああそうかその手があったのかと先輩の小説で埋められた原稿用紙を撫でた。彼女を盗み見ると、どこか怯えるような表情でホワイトボードを見つめていた。まるでこの狭い水槽から掬い出すように、僕は何食わぬ顔で尋ねる。
「天音先輩はあります?」
先輩は、強く張っていた透明な糸をゆるめるように瞬きを繰り返した。微かに表情が和らいだのを感じる。
「だからさぁ、その敬語やめにしない?」
からかうような口調で天音先輩は僕のほうに身を乗り出す。同じ机を挟んで向かいに座って、僕の脚と先輩の脚が当たってしまいそうな距離をさらに縮めようとしてくる。僕は机の下で伸ばしていた脚を、咄嗟に自分のほうに引き寄せた。
「もうあたしたち、友人みたいなものでしょ」
「でも、僕は天音先輩のことすごく尊敬していて、師匠みたいなものだし」
言い切ってみて、まあ嘘は言っていないなと苦笑するしかなかった。途端彼女は挑発するようにこっちを見上げる。目を逸らそうにも逸らせなくて、真っ黒な瞳に映る僕を見つめた。おかげで、ほんの少しだけその目が青みがかっていることに気付いてしまう。
「あたしだってそう思ってるよ。むしろあたしが敬語を使いたいくらいに」
そうきたか。
「それだけは、やめてください」
笑い飛ばしながらくすんだ天井を眺めた。僕が敬語なら先輩も敬語か。天音先輩に敬語なんて使われたら、と想像しようとしたが全く無理だった。これはもうそういう未来はないということだろう、きっと。
「じゃあーーお互い敬語は使わない、これでどうですか」
ちょっと声が震えたのは秘密だ。いつも先輩が僕にするように先輩の目を真っ直ぐに見て、机の下で手も震えていることを悟られないように。先輩は少し驚いたような顔をして、寂しそうに笑った。そんな顔。天音先輩はいつも笑っているけれど、時々覗くそんな顔に揺さぶられて仕方ない。まるでこの世の理不尽さを全て見抜いていて、そのおかげで僕らは今呼吸をしているというこの世界の秘密をその小さな身体で背負っているかのような、そんな顔だ。
「……ペンネームの話だっけ?あたしは何の捻りもない“天音”だよ」
不意にその後の言葉が入ってこなくなった。天音先輩が天音なら、どちらか一文字くすねてしまおうか。仮に隣のページに作品が並べばーーそんなことを考えたらさらりと名前を考えついた。手元の原稿用紙を引き寄せて、音巴と書き殴る。
「おとは。音巴おとはにします」
言いながらこれが敬語かと気付いた。天音先輩はそれを指摘せず僕の文字を見つめている。その時間はわずか三秒ほどだったかもしれない。だがあまりに・・・・反応がないので、僕は天音先輩ーー天音さんの顔を軽く覗き込む。どんな表情が正解か分からず、天音さんがおちゃらけるときのような顔を思い浮かべた。敬語にならないように気を付けながら。
「天音さん。音っていう字、良いよね」
案の定彼女はきょとんとした顔で、「そうだね?」なんて首を傾げる。それが愛らしくももどかしくて、先程せっかく綺麗に拵えた顔を歪めるしかなかった。
「鈍感だな、天音さんは」
「……え、えぇ?ってかそれあたしの原稿用紙なんだけど!」
「ごめんごめん、消すよ」
音巴の文字を消そうとペンケースを漁っていると、今日も呆気なく上目遣いを喰らった。
「消さなくていいよ。君の字、持って帰らせて」
ああ、またあんたはそんなことを言うんだから、本当、困った人だ。

「中江君!」
「……由芽。浴衣なんだね」
「変じゃない?大丈夫?」
屋台の並ぶ会場の端っこ。花火大会当日。僕にもう少し勇気があれば、隣にいたのは天音さんだったんだろうか、なんて最低なことを考えてしまって死にたくなる。何度も告白されたのが苦しかったとはいえ、申し訳なさから由芽を受け入れた僕が悪いのだから。
「大丈夫だよ」
あ、由芽って、天音さんより背が高いな。
「じゃあ、行こう!私、場所取っておいたの、中江君がギリギリにしか来られないって言うから。用事、大丈夫だった?」
「ああ、ありがとう」
用事なんてない。極限まで顔を合わせなければ、由芽からさよならを言ってくれないかと苦めの期待をした。同時に、天音さんに薦められた本をギリギリまで読みたかったなんて、絶対に知られないように。
由芽が言い出さない限り手も繋がない。今日こそ別れを告げると、今まで何度そう思って何度それが出来なかったことか。
「あのさ、由芽、もう僕とは別れーー」
「別れないで!私は一緒にいてくれるだけでいいの、お願い見捨てないで」
「でも、本当に、僕は」
「別れたら私死んじゃう、お願い、中江君にいてくれるだけでいいから」
そんな泣きそうな顔で僕を見ないでくれよ。同じ台詞でも天音さんだったらきっと可愛いと言えたのに、由芽に対してはただごめんと謝るしかできなくて。こんなに想ってくれているのに見放すのは失礼か。天音さんが僕のことを好きとも限らないし、というかそんなこと無いだろうし、いっそ天音さん、あんたから僕を好きだって言ってくれたら、楽になれるのに。ああ良くないなぁ、天音さんは綺麗な人だから、きっと恋人くらいいるんだろうな、いたとして、僕以上に天音さんの深いところを知ってる人間なんていないのだけれども、なんて。

天音さんは花火をどう表現するのだろう。夏休みも残り一週間になり、僕は何気なく本屋へ立ち寄った。明日は天音さんとの予定があるから、完成したあんたの小説を読める。そして僕の詩も完成させなければいけないのだが、花火大会の日から原稿用紙は一マスも埋まらなくて、重い足を引きずって散歩に出かけたものの中々気分が晴れない。詩集のコーナーで立ち止まり、ぼんやりと眺めた。あんたが持ってる詩集とやらは、この中にあるのだろうか。聞けば良かったな、と思いつつ溜息を吐いた。
「あれ?中江君じゃん!」
後ろから声をかけられて我に返る。名前が出かかったが確信がなく、「部長さんじゃないですか」と濁した。
「今日はアマちゃんと一緒じゃないの?」
必死で目を背けていた部分をぐさりと刺され、僕は天音さんよりも猫背になって項垂れる。夏休みも終わるというのにギリギリで読書感想文に手をつける少年少女達が児童書のコーナーをばたばたと走り回って、唐突に夕日が見たくなった。哀愁漂う夏の終末を呑み込んでくれそうな赤色のほうへ、身を任せてしまえたらどんなに良いだろう。
「そんなに僕ら、一緒にいるように見えますか……」
「見えるよ〜?付き合ってるんじゃないかって噂もあるくらいーーって大丈夫!?」
盛大に噎せてしまってただただ謝った。元気のない理由を聞かれ、詩が思うように書けなくてとまた濁す。先日天音さんと読み合いをしたとき、もしかしてこれ恋愛の詩だったりする?と好奇心に満ちた顔で尋ねられ、あんたへの感情を詰め込んだなんて口が裂けても言えなくて困った。未完成のラブレターを本人に読ませているのと一緒だ。身に覚えのない罪で起訴されている気分になる。
「じゃあ……ウチみたいに短歌やってみる?」
「短歌、ですか」
「そう!アマちゃんと二人で考えてみても良いと思うな〜、例えば上の句と下の句と分けてみたり」
はっとして部長さんを見ると、何もかも見抜かれたようににやにや笑われた。その場にいるのが恥ずかしくって、お礼を言いながら本屋を出る。まだまだ現役の夏が僕を溶かそうと必死だ。そういえば天音さんが文化祭の為に書き進めている小説は、港町が舞台だったな。海が見たいと思った。確か電車に乗れば近場の海まで行けるはずだ。後から行ってみるか、と時計を見るとお昼頃。すぐそこのショッピングモールのフードコートにふらりと入ると思った通り満席。かろうじて見つけた席で、僕は上の空のまま昼ご飯を食べ始めた。
そもそも僕は小説を書く人間だった。小学校六年間と中学の最初の一年間だけだったが、僕は本気で小説家になりたくて、ひたすらに書いては家族に読ませていた。だから中学二年の最初、将来の夢をテーマに作文を書くよう言われたときには当然小説家を掲げた。まさかそれがクラスで晒されるとか、考えもしなかったんだから。あろうことか当時の担任は、僕が書き進めている途中の原稿用紙を覗き込み「小説家なんて叶わないぞ」と全員に聞こえる声で言ったのだ。途端クラス中が沸いた。誰だよ小説家になりたいとか、叶うわけないじゃん、中学生にもなって何夢見てんの。窓がぎしぎしと軋むような嘲笑で今でも頭が痛くなる。だって、夢って言ったのはお前らだろう?沢山夢を抱かせたのもお前らだろう?吐き気がして、それを振り払うように原稿用紙を破って、新しい原稿用紙に僕はなんて書いたのか、とても思い出せそうにない。それ以来もう二度と創るもんかと思っていた。本を読むだけにとどめて、二度と何も書かなかった。飽きたなんてヘラヘラ笑っていれば誰も僕になんて期待しなくなったのに、それを、あんたは!何が詩とか書いてみる?だ、笑わせんなよ、おかげでまた原稿用紙に言葉を連ねることが楽しいとか、思ってしまってーー。
「……夢?」
スマホの画面に天音さんと表示されていて、僕は反射的に右手で左腕をぎゅっと握る。爪を立てて、じんわり痛くて、夢じゃないのかと応答ボタンを押した。今まで電話なんてくれたことなかったのに、何かあったのだろうか?不安になりながら、まだ飲み込めていない一口をひたすらに咀嚼する。
「天音さん?僕いま……お昼食べてるんだけど……」
恐る恐る喋りかけると、無数の雑音が途切れてあんたの声がした。
「あっ、ごめん、そうだよね、気付かなくて。なんでもないから、またーー」
その声で、なんでもないだって?嗚咽を押し殺したような、いつもと違って何かに怯えるような震え声。無論いつもと呼べるようないつもではないけれど、天音さんと生命線を重ねたのはほんの少しだけだけれど、それでも異変には気付いた。
「声、震えてんだよ。なんでもないように聞こえないんだけど」
居ても立っても居られなくて僕は乱暴に椅子を蹴った。荷物という荷物もなかったので、この身ひとつで足早にフードコートを立ち去る。本当は今すぐにでも走り出したかったが、目的地が分からない以上それは非効率的だ。
「どこにいるの?僕、そっち行くよ」
なんとなく、海だと思った。僕がさっき海が見たいと思ったことも相まって、海な気がしていた。運命だなんて吐かすつもりはないが、あんたの考えていることはなんとなく、分かるようになっていた。天音さんはやっぱり他の人とは違う。
「え、でも」
「いいから!」
声を荒げるとすれ違った人がびくりとしてこちらを訝しげに見た。そりゃそうだよなと声量を落とす。
「どこにいるか言って。その状態のあんたを放ってご飯が食えるほど、僕はあんたを嫌いじゃない」
沈黙の向こうで波の音がする。やがて分かりきった答え合わせを、彼女は呟いた。
「海……」
やっぱりか、そう思いながら駅に向かおうとして、どの方向に行っても海はあるなと立ち止まった。さすがに近場の海だろうか。賭けに出るのが怖すぎて、僕はできるだけ優しくあんたの名を呼んだ。
「天音さん。海だけじゃ分からないよ」
「中央駅から……多分三駅……」
「多分って。覚えてないの?」
その場で調べると、中央駅から三駅の場所に海岸駅があった。きっとそこだろうと目星をつけ、静かに電話を切る。天音さんが泣いていた、確かに泣いていた、きっとあの真っ直ぐな瞳を震わせてーーそこまで想像してぎゅっと胸が痛くなる。もしもあんたが真っ先に僕に電話をかけてきてくれたのならそれほど幸せなことはないなと、心配より自惚れが僅差で勝ってしまってまた自分の最低さに嫌気がさすのだった。

丁度やってきた電車に乗り込んで三駅。砂浜に続く階段を駆け下りると、誰かが海に入っていくのが見えた。暑いもんなあ、とぼやきながら目を凝らして、その人はどうも膝より上まで浸かっていることに気付いた。どうして、あんな深くまでーーいや、あれは。
長い黒髪のポニーテール。青空と混じって溶けてしまいそうなほど真っ白な肌。僕にはその眩しいほど不吉な青が真っ赤に染まったようにも見えた。そんなはずないのに。
駆け出した。スニーカーが砂に引っかかって転びそうになる。波打ち際で貝殻が攫われて消えた。もしかしたらあんたも、そうはさせない、なんて言えた立場じゃなくて、それでも僕はまだ、あんたを好きでいたいんだよ。
「天音さん!」
掴んだ腕は想像より細かった。引っ張ったらこれも想像より軽くて、僕の力でも軽々と抱き上げられてしまう。多分いつもなら天音さんにからかわれたし、僕も緊張してこんなことできなかったけれど、緊急事態だから仕方ない。
空っぽの海。天音さんが僕の腕の中で子どもみたいに泣いている。この人確か僕より歳上なんだっけ?三年生だもんなと、泣き崩れ歪んでも綺麗な顔を盗み見る。
「……なくなっちゃったんだ」
海から抜けて砂浜を踏みしめたとき、天音さんが涙声で言った。そして何度も繰り返す。なくなっちゃったんだ、なくなっちゃったんだと。どうもピアスを落としたみたいなそんな軽いノリではなさそうで、僕は天音さんの華奢な背中をさすって、さっき下りてきた階段に天音さんを座らせる。暫く声を上げて泣いていた天音さんは、少し落ち着いたのか目元をごしごし擦って泣き止んだ。その腕が長袖なことを知って、僕も長袖で、同じ理由だったらと不謹慎な事を願った。それを振り払うように僕は尋ねる。
「何がなくなっちゃったのか、聞いてもいい?」
「……“秒針などなくても”」
「それって、明日読ませてくれるって言ってた小説のタイトルだよね……?失くしちゃったの?」
確かにそれなら一大事だ。だが天音さんはゆるゆると首を横に振った。

「違うよ、壊されちゃったんだ」

耳鳴りがして視界が歪んだ。天音さんの背中をさすりながら、人の大切なものを壊すなんてこれだから人間を信頼なんて無理な話だ、なんて。
僕はいつから人を心から信頼できなくなったんだっけ。小学校の休み時間に本を読んでいただけで、みんなで外で遊ぶ仲間に入っていないことを異常視する幼い心情により僕は後ろ指を指され、クラスで孤立した。自分が悪くないのは分かっていたし、読書を悪いことだとも思わなかったから、僕はそれでも毎日学校に通っていたけれど、僕は僕だから、“皆様”と違うからと僕は僕でいることを否定された。そして僕が弱っているように見えると、決まって野次馬という偽善者らが群がってくるのだ。僕は可哀想な人間として晒し者にされ、当時大事に繰り返し読んでいた本を隠され、とうとうそれが僕のもとに戻ってくることはなかった。大切なものが第三者によって唐突に壊される恐怖を味わったあれ以来、僕は誰に対しても心を閉ざしてしまう。天音さんのことだって、完全に信頼しきっているわけではないのだから。

「音巴。音巴、聞いてる?」
いつの間にか眠っていたらしい。すっかり乾いたスニーカーは軽く、天音さんのスカートも風に吹かれて揺れていた。色んなことを駄弁ったような気がするが、全部夢と言われればそんな気もする。沈みかけた太陽が真っ赤に燃えて、まるで僕らごとこの世界が夏に殺されていくようだった。
「帰ろうか。家まで送るよ」
そう宙に言葉を投げ出して返事を待つが、天音さんは一向に応えない。どうしたのかとそちらを見ると、彼女は俯いたまま僕の手に触れた。
「もうちょっとだけ。きっとまだ、乾いていないから」
「ほんと、あんたって人は。この関係が終わるわけじゃないんだからさ」
揺らぎそうになったのを必死で隠したのに、天音さんはこっちを真っ直ぐに見据えてこんなことを言う。
「でも、今日はもう終わるよ」
「……そうだね」
それ以上口を開くと全てが溢れそうで、僕は必死で閉ざした。不意に浮かんだ三十一音を繋ぎ止めて、一句創り上げてみる。
抱き寄せてしまえばきっと死ねたのに
そんな勇気も僕にはなくて
言えないな、あんたには。絶対に聞かせられないな。こんな気持ち悪いはらわたなんか晒した日にはきっと、あんたは僕の前で泣いてもくれないだろう。それならこのままでいい。あんたが唯一心を開いてくれるこの場所を、自ら壊したくはないのだ。
「天音さん、帰るならコンビニでアイス奢ってあげるよ」
「ほんと!?ハーゲンダッツが良い!」
「いいよ、好きなの買ってあげるよ」
あんたはすごく大人っぽいけれど、同時に極端に子どもだ。それはきっと僕にだけ。立ち上がって駆け出すあんたがまるでーー笑わないでね、本当に、僕には天使みたいに見えたんだよ。

次の日の午後。夏休み最後の部活動の為、僕は図書室へ足を運んだ。そろそろ原稿を提出する部員もいるらしい。僕はまあ、ギリギリまで粘るか、などとほざいていた。図書室にはもう部長さんと、それから天音さんがいて、僕は二人に挨拶をしていつもの席に座った。やがて部員が揃ってきて、いつもの賑やかな文芸部と、それを傍観する僕ら二人が出来上がった。昨夜拵えた詩を天音さんに読んでもらおうと原稿用紙を取り出したそのとき。
「君、彼女さんいるって、本当?」
え。
「……本当だけど。誰に聞いたの」
喧騒が一気に遠ざかった。例えるなら血の気が引くのと同じイメージだ。同じ机を挟んだ一メートルに及ぶか及ばないかくらいの距離で、あんたは僕の目を、今日も真っ直ぐ見つめて逸らさない。
「誰でもいいでしょ。それよりさ、そんなことは早く言ってよね」
自分の後頭部を誰かが撃ち抜いて、出血でもして、手のひらが真っ赤に染まってしまったら、こんな不快感も覚束ない程に慣れてしまうだろうか。口から入ったナイフが喉から肺の火傷を突いて、苦しくて仕方がない。
「ごめん」
「いや、怒ってるんじゃないんだよ、そうじゃなくてさ」
天音さんは上目遣いの位置をキープしたまま、満面の笑みを浮かべた。
「あたしにも紹介してよ、君の彼女さん」
「……あ」
この期に及んできっと、最大級に気持ち悪い自惚れだ。あんたをナイフで抉った中身はきっと、僕と同じ構造をしている。だから、分かる。こっちを見つめ続けるその瞳が、ほんの少しだけ、ほんの少しだけ曇った気がしたのが、どうか本当であってほしいと、そう願うばかりだった。


宜しければ。