ウエヤマ

京都の大学生。文章を垂れ流したい。

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最近の記事

ヴィーガンをなぜみな煙たがるのだろう

● 学部1回生のころ、倫理学の授業を取っていた。前半は主に功利主義の話をしていて、つまりはトロッコ問題を中心とした功利主義の考え方、それに対する反論、さらにそれに対する再反論を聞かされた。後半は動物解放論の話であった。ピーター・シンガーを軸に置いた、その教授のいわゆるヴィーガン論の講義であった。その時点まで、動物の権利だとか、そもそも人間の権利について深く考えたことはなかったけれども、その講義を聞いて僕はヴィーガンの言いたいことが分かってきた気がするのだ。 ● 詳しい論理は

    • 俺は数学に対する物理のように、倫理学に対する倫理を考えたい

      今日思い立ったことを書き留めます。 ヒュームの法則という存在を知ったのがここ最近。要約すれば、であるという事実記述の論理から、価値判断を示すすべき論理を直接導出するということは難しいという話である。 詳しくそして簡単に示してくれているのが上の記事である。つまりは、であるという事実記述を使って、~すべきという結論を出すことは、なかなかに困難であるという話だ。価値判断は価値判断である程度その論理世界で閉じていて、事実記述型の世界からその世界には飛び越えられないのである。僕はこの

      • お金みたいに人を測ってほしくないよねって話

        ● 当然だが、人はお金ではない。そもそも、お金というものは人間の能力に対応して後天的である。功利主義は昔の類人猿からあるだろうが、お金はそれに対応してできた道具である、というのが僕の考えである。だからお金を土台とする今の資本主義的社会はある意味では後天的である。 ● 功利主義はご存じだろうか。簡単に説明するならば、人間(別に人間に限る必要はないが簡単のために)の快、不快を数値に還元できると仮定し、その総量を計算することによって何が正しいか、何が正しくないかを決めようという試

        • 道徳を知ることとすること

          ● 道徳の授業は常に退屈であった。今から思えばあの授業はかなり道徳を帰納的に補助してくれていたのだと思う。一方であの道徳の授業には意味がなかったとも思う。 ● 最近倫理学にとりわけ興味をそそられている。というのも、大学に入学してからというのも否が応でも人間と触れ合う機会が増え、その機会が増せば増すごとに人を傷つけている、あるいは傷ついている状況に出くわすことになる。あのとき僕は一体どうすればよかったのか、どうすればだれも傷つくことなく過ごせたのか、あるいは傷つく”べき”だっ

          ドライブによる世界の収縮

          先日琵琶湖をドライブした。不幸にも当方大学生であり、お金も頭もないために、大津京の近くにある、いかにも中小のレンタカー屋で軽自動車を借りた。 早速アクセルを軽く踏んで身体を進めるのだけれど、なんというか車での移動というのは、違和感を感じる。去年行った琵琶湖とは違う琵琶湖を見たような気がした。 初めてこの違和感を感じたのは教習所での路上教習だ。 明らかに世界が狭いのである。 それは単に、車内の構造が僕を圧迫しているだとか、教員がそばにいて萎縮してしまうだとかそういうわけではな

          ドライブによる世界の収縮

          正体不明である

          正体不明である。僕の位置はどこだろう。夜が待ち遠しいようで忌避している。寂しいからだ。寂しいからか。自分を殺すほうへ向かわせる感情は隔たりがなくて、流動している。どろどろしているようで、さらさらしていて、急に跡を残さずに消える。ところで僕を襲う。

          正体不明である

          しんかんせん

          フワッとからだが浮いた 地球の速さに追いついていく日差しの光 遠くの山は空に重なって 曇った海が波打った イヤホンが耳 別の世界を押し付ける 高い山が雲に吸い取られてた トンネルが平野を切り取ってるから 森を跨いでいるから 暗いから明るい 京都に着いた

          しんかんせん

          幸福などという、かなり曖昧な概念を考えてみる

          幸せになりたい、と僕はよく思うし、たいていの人はそう思うだろう。お金持ちになって幸せになりたい、有名人になって幸せになる、とか。もっと小さく、あの人に気に入ってもらえて幸せ、とか新作の漫画が読めて幸せ、とか。こう挙げるだけでも、幸せというものはあまりに多義であって捉えづらい。おそらく僕たちは、なにかイベントが起こった時に、そのイベントに対し嬉しい感情を抱くことがあって、そのイベントと感情をひっくるめて幸せと呼ぶのではないか、と思う。そのイベントが多岐に渡って、その嬉しい感情に

          幸福などという、かなり曖昧な概念を考えてみる

          ぼくの琵琶湖探索紀

          まえがき 急に物を書きたくなったので、先日ふらっと出かけた琵琶湖について書くことにする。昔から一人で旅に出かけることは好きだった。同行者のいる旅というのは面白いし、それはそれで一つの楽しさなのだけれど、やっぱり気を張ってしまって旅自体を楽しんでいる気がしないのだ。僕は美しいというか壮大な力強い景色を見ると一瞬で心がどこか離れてしまって、その景色に吸い込まれるような感覚になることがよくある。この状態はとてもそれ自体面白いから、旅というのはこの感覚を得るために行うものだという

          ぼくの琵琶湖探索紀