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俺は数学に対する物理のように、倫理学に対する倫理を考えたい

今日思い立ったことを書き留めます。
ヒュームの法則という存在を知ったのがここ最近。要約すれば、であるという事実記述の論理から、価値判断を示すすべき論理を直接導出するということは難しいという話である。

詳しくそして簡単に示してくれているのが上の記事である。つまりは、であるという事実記述を使って、~すべきという結論を出すことは、なかなかに困難であるという話だ。価値判断は価値判断である程度その論理世界で閉じていて、事実記述型の世界からその世界には飛び越えられないのである。僕はこの論理に激しく感動し、やっと自分が語るべき方向性が見えてきたと安心までもしたものである。しかし本当にそうであろうか。


功利主義を考えると、それはすべて事実記述型の論理であることがわかるだろう。様々な功利計算がなされるとはいえ、計算した結果というのは事実であり、そこからべきを提出できないのだ。
人を殺すべきではない、という主張を考えてみる。功利主義で言うなら、人を殺す世界とそうでない世界を考えて、他人からの非難、法によって牢屋に入れられ最悪の場合死刑、さらには当人の罪悪感も功利計算に入れるのならば、人を殺すことは殺さないことよりも功利計算は低い。つまり、”人は殺すべきではない”。


分かる通り、””でくくった部分は飛躍がある。ヒュームの法則に抵触するからだ。功利主義ではあくまで、功利計算までしか結論が出せない。
功利主義は道徳判断に"使えない"のだ。


なにか違和感が僕には残った。これ以降は正しい議論はないし、ただの思い付きでしかないけれど、それがあってほしいと願うものである。


数学に対する物理について少し書く必要があるかもしれない。ちょうど価値判断の世界のように、数学はそれ自体が完成された矛盾のない論理の世界にある。だからある意味で、数学は正しいものであり続けるし、この僕たちが生きる世界で正しいものはそれのみであると思う。しかし、それは現実に全く対応しない。僕が今学んでいる物理は、悪い意味で数学の世界を借りている。物理の理論を作る際は、数学の世界を借りるけれど、かといって数学の完全なる論理まで持ってこない。なぜかと言えば、僕らからすれば、そのがたがたの数学もどきの論理が現実にうまく対応することが正解だからである。物理において、現実に対応しない理論は破棄される。それが数学の論理を守っていてもだ。言えることはこうだ。つまり、論理の正しさと現実を映す論理とは本当に別の意味でそれぞれ正しいということである。数学の世界で正しいことは、矛盾がないことだ。物理の世界で正しいとされることは、どんなハチャメチャな論理であっても現実の実験結果とうまく適合するのであればそれが認められる。いい例が量子力学である。量子力学におけるコペンハーゲン解釈は我々の通常の意味での直観からすればハチャメチャな論理である。しかし、その論理は、不思議なことに世界の実験結果をほぼ正確に記述するのである。


この関係を類推して、僕は論理に支配された倫理学(これが数学)ではなく、現実をうまく適応させた倫理(これが物理)を追究したいと思うのである。論理は論理で正しいのは確かだ。しかし、それが現実の現象の記述に合うかは定かでない。
歴史的に、物理が成功を収めてきたのは事実である(成功という意味は、実験結果が理論にあっていて、それが実生活の開発に活きているという功利主義的な意味で)。しかし学べば学ぶほど、その理論の発端はむしろ根拠のない、そうであってほしいという人為的なものであって、全く論理的ではない。進化論に似たように、そういった様々な理論が実証研究にかけられ、いまなお残っている理論が、教科書に残っているし今使われている理論である。僕は、そこに対応するような倫理を作りたい。つまりは、どんな奇天烈な理論であってもそれが現実をうまく再現するのであれば、否定のできない理論である、ということである。厳密な理論家からすれば、そんなもの、と思うかもしれないが、しかし現実をうまく説明する理論は、実験結果がそうという限り否定できないものである。


これは科学の文脈においての数学に対する物理の話であって、別途語るべき話題ではあるけれども、類推すること自体は悪くないだろうし、むしろこれこそ物理の理論家の仕事であると思う。


支離滅裂な文章を書いてしまって、それをここまで読んでくれた人には申し訳ないけれども、つまり言いたいことは、表題のとおりで、そこまで論理(ヒュームの法則はじめ)に傾倒する必要がないのかもしれないということに終始するのかもしれない。

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