お金みたいに人を測ってほしくないよねって話
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当然だが、人はお金ではない。そもそも、お金というものは人間の能力に対応して後天的である。功利主義は昔の類人猿からあるだろうが、お金はそれに対応してできた道具である、というのが僕の考えである。だからお金を土台とする今の資本主義的社会はある意味では後天的である。
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功利主義はご存じだろうか。簡単に説明するならば、人間(別に人間に限る必要はないが簡単のために)の快、不快を数値に還元できると仮定し、その総量を計算することによって何が正しいか、何が正しくないかを決めようという試みである。有名なのはトロッコ問題である。ここで書くのはあまりに月並みなので差し控えるけれども、とにかく功利主義というのは、議論を呼ぶ割に我々の身に沁みついている考え方である。
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道徳的な議論をするときでさえ功利主義は入り込む。先に書いた記事の、トリアージの件はいかにも顕著である。トリアージとは命の選別であり、阪神淡路大震災では助かる可能性のある命から助けるという選別が行われた。ここには功利主義が潜んでいることは言うまでもない。つまり、すべての助かるか助からないかわからない命を助けるよりかは、助かりそうな人だけを優先して助けることによって助かる人を増やす、快の総量を増やすことである。
我々は果たして、この功利主義の考え方を用いてトリアージを正当化してよいのだろうか?功利主義で決まるトロッコ問題を正当化してよいのだろうか?
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僕はそれに対して反対したい。我々の直観を軽く見てはいけない。トロッコ問題がなぜ問題になっているかを考えてみてほしい。僕らはレバーを操作して意図的に人を殺すことに嫌悪感を抱くだろう。功利主義の否定はそれだけに敷衍されない。人間関係を果たして功利主義に還元してよいか?答えはノーである。
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だからといって、功利主義以外の何かに還元できるということではない。今主張しているのは、道徳判断が、功利主義に還元できないということだけであるし、僕がいま考えたいところはそこである。つまり功利主義以外で道徳を還元できるものがあるだろうか、ということである。
功利主義はあまりにも僕たちの考え方に染み込んでいる。例えば、人を殺すことについて考えてみてほしい。人を殺すことがいけないことは、議論の余地もない(はずである)。しかしながら、功利主義は人を殺すことがいけないことを説明できてしまう。つまりは、犯罪に触れて、逮捕されてしまうことと人を殺す快(メリット、と言ったほうがこの場合良いのかもしれない)とを比べた際に、人を殺すほうが不快が増えるので、人を殺してはいけないと結論づけることができてしまうのである。
人を殺す際に、この快楽計算を人はしているだろうか?
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ヒュームの法則について少し触れたい。ヒュームによれば、であるという事実判断の前提から、すべきであるという規範的、価値判断的命題は演繹的推論を用いては引き出せないことを主張している。功利主義はいたって事実判断的主張である。おそらく、僕らが功利主義に対して感じる違和感というのは、ここではないだろうか。つまり、人はなにかしらの計算から殺してはいけないのではなくて、そもそも殺してはいけないのだ(快楽計算はずっと事実判断、殺してはいけないというのは価値判断)。
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功利主義が適用できる範囲というのはあくまで道徳に入り込まない、メリットやデメリットで考える世界の中だけであると思う。僕らの道徳は、功利主義では還元できない。
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