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幸福などという、かなり曖昧な概念を考えてみる

幸せになりたい、と僕はよく思うし、たいていの人はそう思うだろう。お金持ちになって幸せになりたい、有名人になって幸せになる、とか。もっと小さく、あの人に気に入ってもらえて幸せ、とか新作の漫画が読めて幸せ、とか。こう挙げるだけでも、幸せというものはあまりに多義であって捉えづらい。おそらく僕たちは、なにかイベントが起こった時に、そのイベントに対し嬉しい感情を抱くことがあって、そのイベントと感情をひっくるめて幸せと呼ぶのではないか、と思う。そのイベントが多岐に渡って、その嬉しい感情にも色々差異があるせいで、幸せというものが捉えきれなくなっていないか?と思うのである。

まず、その嬉しい感情というのが何なのか考えてみたい。僕は物理の信奉者であって、かなりの唯物論者(だと思っている)なので、感情が脳みその化学物質やらその化学反応によってすべて説明できると信じている。嬉しい感情になる、ということは、それに対応する化学物質が出ているということである。そしてその化学物質は沢山あるらしい(ドーパミンだのエンドルフィンだの)。興奮することを嬉しいと感じているとするのか、とか考え出すと、それだけで感情に幅が出てきて、だから幸福が捉えづらいのだろうなと思う。そしてさらにいうとすれば、おそらく感情を表す言葉が少ないのだ。僕の語彙力の話かもしれないけれども、感情がその化学物質の混合具合で構成されているんだったら、おそらくその割合は無限通りある(というか連続に変化していて、グラデーションになるはず)ので、いくら言葉があっても足りないのだ。
虹を7色とする地域があったり12色であったりする地域があるのは有名だ。なぜそんなことが起こるかといえば、そもそも色が連続するグラデーションのもので(その色の周波数が連続と考えるかどうかはまた一考の余地あり)あって、それを人間が色という言葉を使って切り分けているからだ。僕は感情がそれと同じだと思っていて、喜怒哀楽だの興奮、落胆とかはその連続を切り分けているだけであると思うのです。つまり、嬉しい感情というもの自体がゆるゆるの、曖昧な概念であって、幸せはそれに立脚しているから曖昧になってしまうのだ。

次、別アプローチから。これは本当に僕の経験上の話でしかないから話半分で聞いてほしいのだけれど、幸せを考える上で重要と思うことがあって、横軸に時間、縦軸に嬉しいイベントの総量(総量というか、実質的な嬉しみ?)としたときに、時間が経つにつれてイベントというのが増えたり減ったりして、グラフが作られると思うのだけど、幸せというのはある時間でのそのグラフの微分係数、つまり増え具合だと思うのです。イベントが登り坂のとき、例えば恋愛でいうところのえ、いま両思い?片思い?の段階、あれがやっぱり楽しいのではないか、付き合ってみたらみたで、安定するけど退屈、みたいな。それを表現してくれているのは、その微分係数説だと思う。あるいは成功者の話とかもそう。権力や金を持ち始め、成功に登り詰めているとき、おそらく1番幸せだろう。登り詰めてしまったら最後、退屈が訪れてしまう。そしてもう下るしかないから、不幸になってしまう。
この微分係数説を信ずるなら、僕らがやるべきことは、つまりずっとその傾きを正にすることである。嬉しいイベントを増やし続けることである。しかしそれにはやはり限界がある。だが、僕は落ち込むことはないと思うのです。その嬉しいイベントの軸は一つでは無いと思うから。幸いなことに、僕らは文化的に豊かな世界に生まれていて、やろうと思えば新しい嬉しいイベントをいくらでも創出できると思う。ある程度の努力も必要だが、色々な趣味だの活動に着手してみることがやっぱり大切なのだろう。


最後は何か説教臭く、胡散臭くなってしまったけど、とりあえず僕の幸せの感覚はこのような感じだ。まだまだ生きている時間が少ないから今後幸せに対する考え方が変わることはあるかもしれない、いや必ずあるだろう。でも、なにかある程度こういう幸せについての自分の考えを持っておくことは、人生の選択、もっと卑近に、日々の活動の指針になってくれるのではないか、と思う。

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