ドライブによる世界の収縮
先日琵琶湖をドライブした。不幸にも当方大学生であり、お金も頭もないために、大津京の近くにある、いかにも中小のレンタカー屋で軽自動車を借りた。
早速アクセルを軽く踏んで身体を進めるのだけれど、なんというか車での移動というのは、違和感を感じる。去年行った琵琶湖とは違う琵琶湖を見たような気がした。
初めてこの違和感を感じたのは教習所での路上教習だ。
明らかに世界が狭いのである。
それは単に、車内の構造が僕を圧迫しているだとか、教員がそばにいて萎縮してしまうだとかそういうわけではなさそうだった。
車に乗ってアクセルを自分で踏んで移動をすると、街が同時に縮小されているような感じがした。ローレンツ収縮のように、僕のアクセルが街路樹の距離を萎縮させた。教習所から僕の下宿先までは、自転車を漕いでいくにはかなりの距離があるはずである。また教習所の送迎バスに揺られているときもかなり遠いと感じた(回り道して運行しているせいでもあるだろうが)。しかし実際自分の足でアクセルを踏み、いくつかの信号機を超え教習ルートを移動していると、あっという間に下宿先付近の交差点に到着している。その短さというのは時間的短さではなかった。距離的に短くなっているのだ。いままで親が運転する車に乗ってずっと生きていたわけだが、この感覚を得たのは初めてである。
それから学科試験を通過し(一度目は落ちた、人生二回目の浪人を経験した)、親の車で地元を闊歩した。そのときも全く同じである。つまりは、僕の生まれ育った街が狭くなっていたのである。あんなに遠かったラーメン屋にも散歩程度にしか感じない。時間的な短さでなく距離的な短さである。
車を運転できるようになったらどんなに世界が広がるだろうと思っていた矢先、この経験をすることにすこし落胆した。もしかしたら初めて自転車を漕いだ時も同じような経験をしたのかもしれない。あるいは久しぶりに通っていた保育園を通りかかったとき。当時はここが僕の生きる世界のすべてとまで思っていたあの園の広場も、今になってみれば子供をうまく管理できるほど小さく、見渡せるほど小さかった。これも一種の落胆である。
つまりは、どうやら自分が何かをできるようになるにつれて、世界の認識の仕方は少し変わるようである。すなわち、世界が狭く感じるのだ。産業革命後のイギリスも、それに続いた列強諸国ももしかしたらこのような認識の齟齬(あるいは認識そのものが正しいとすればそれが世界)に基づいて植民地化を進めてしまったのかもしれない。僕らはただただ生きる世界を広いと思っておけばいいなと願っている。
少し例外がある。電車に乗って移動しているときは、その縮小を感じないのだ。車窓を見ながらなにかしらの思いに耽って、あるいは通学しているときにせよ、僕の中には明らかに移動したという実感がある。
(これについては言い切れないかも。新幹線は速すぎてあんまり移動した感じがしない。在来線で移動したときには移動した感じがする、これに関しては単に時間の長短な気がする。)
移動したという実感は、おそらく車で移動したときよりも電車で移動したときのほうが強く得られるであろう。これはなぜだろうか。
パッと思い浮かんだのは、高校かどこかの現代文の授業で読んだ、人間拡張の概念のことである。僕ら人間はおそらく”大部分”が、四肢をもって、感覚器をもって生まれてくるだろう。手は手としての感覚をもって、自然に扱えるだろうし、目でもって外の世界を見て感覚、認識するだろう。それに加えて、人間はその器官を拡張することができる。身近な例でいえばハサミだ。ハサミを使うとき、紙を切っている感覚がまるで手と同じくらい感じられることがないだろうか。ハサミによって、人間が拡張されているのである。このような人間の能力を拡大させる道具は、人間を拡張させるのだ。義手であったり義足もそうである。僕が言いたいのは、車にも同じことが言えるのではないか、ということである。つまり、車を運転することによって人間が拡張されているのである。電車に乗ることとの違いとはここにあると思う。電車は自分の体は拡張されていない。あくまで自分は自分として、移動している。一方で車は、他人が運転する車のでなく自分が運転する車に乗って移動するときには身体が拡張されているのだ。つまり能力が拡張されたと錯覚されるのだ。先に書いたように、まるで通った保育園と同じように身体が拡張されることによって世界が矮小化されるのであろう。
僕の違和感についての追究はここまでにしておく。もしかしたら運転していくうちに世界の大きさが元に戻るのかもしれない。少なくとも今のこの感覚、感じ方が新鮮だったので、文字に残しておきたかったのだ。
しばらくは、遠くに行きたいと思った時には車ではなく、電車を利用するのがましなのかもしれない。
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