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ヴィーガンをなぜみな煙たがるのだろう


学部1回生のころ、倫理学の授業を取っていた。前半は主に功利主義の話をしていて、つまりはトロッコ問題を中心とした功利主義の考え方、それに対する反論、さらにそれに対する再反論を聞かされた。後半は動物解放論の話であった。ピーター・シンガーを軸に置いた、その教授のいわゆるヴィーガン論の講義であった。その時点まで、動物の権利だとか、そもそも人間の権利について深く考えたことはなかったけれども、その講義を聞いて僕はヴィーガンの言いたいことが分かってきた気がするのだ。


詳しい論理は忘れてしまったけれども、その講義では動物解放論が特に謳われ、動物をなぜ殺してはいけないのかだとか、なぜ我々は肉を食べてはいけないのだとか聞いた覚えがある。それをいろいろ聞いたうえで僕が思うに、ひとは、肉を食べてはいけない(のかもしれない)。
詳しいことは多分別のnoteで書くだろうからここでは言わないけれど、僕の今の信条としては、動物の肉を食べることは”未成年飲酒に近い”と思っている。この比喩を細かく説明はしないが、どうか伝わってくれ。


問題はそこではなく、こういったヴィーガン話をするとよくある反応としては、(1)もし肉を食べてはいけないのだとしたら人は生きていくことはできないじゃないか、(2)肉を食べないのは分かったけれど、それを他人に押し付けないでほしい(つまりは、自分は肉を食べるけれども、肉を食べない人がいてもよい)、のだいたい二つにまとめられると思う。この二つについて、僕はある程度反論を用意できると思う(もちろん僕も元々はその反論をする側であるし、僕は今でも肉を食べる。あくまで、その心情が”未成年飲酒”に近しいものである、という考えを持っているということである)。


まず(1)について。倫理学の講義で学んだ(というか力説された)ことは、人間は肉を食べなくても生きていけるということがまず挙げられる。江戸時代では、庶民が肉を食べられることは滅多になく、ほとんどの人間は採食生活で意図せずヴィーガンであったのだ。肉を食べるのはなにか大きな祭りごとであったり、儀式のときだけであるらしい。どうやら人間は肉を食べなくても生きていけるという。
しかし、そこは強い反論ではないと僕は思う。その反論はあくまで、実生活まで次元を下げた、実践の話であって、本当の真偽に影響はしないのではないか、と思う。奴隷制度がいい比喩だと思うのだけれど、南北戦争が勃発する直前、南部の人たちは奴隷解放に反対していた。もし奴隷が解放されたら、いまの奴隷を使う農業が崩壊して、生活が維持できないだろうと。しかしその事情と、奴隷制度が正当化される話とは、全く次元が違うのは明らかであろう。つまりは、そのうちに潜んでいる一種の功利主義的な功利計算は、倫理の真偽にもっぱら役に立たないのである(ここでいう功利計算というのは、奴隷を解放するかしないかでその未来の快不快を計算したとして、もし奴隷を解放しない世界のほうが快が大きいと計算されたとしても、それが奴隷制を正当化する理由にはならない、ということである)。
つまりは、肉を食べてはいけないという世界になったとして、生活が崩壊するとしても、それを理由として肉を食べることを正当化できるわけではない、ということである。


(2)肉を食べてはいけない、というものを他人に押し付けないでほしい、という主張に対する反論であるが、この主張は現代の多様性の概念の拡大解釈の結果ではないかと僕は常々思っている。この反論は結構鋭利なもので、きっかけはTwitterであった。

このツイートに僕は圧倒された。言いたいことはこのツイートで語りつくされているのだが、もう一度要約して言うとこうである。児童虐待に反対する人は、単に自分が児童虐待をすることを否定するのを表明しているのではなく、自分以外の人間にも、児童虐待をするべきではない、と主張しているのであるし、当の本人は、児童虐待は犯罪(もっと言えば倫理的に間違っている)と主張しているのである。これと同様に、ヴィーガンで肉を食べるべきではないと主張する人たちは、単に自分が肉を食べてはいけないと思っていることを主張しているのではなく、自分以外の人間みんなも、肉を食べてはいけない、と本気で主張しているのである。元の(2)の反論をもう一度吟味してみよう。児童虐待についても同じ反論ができるだろうか。もうひとつ極端に、人を殺してはいけないという主張を果たして人に押し付けるなと主張できるだろうか?
(この議論の反論にそなえて:
 児童虐待と肉を食べることは同じではない、という反論は考えられるし、そこが実はヴィーガン論争の中心であると思う。僕の意見は、ほぼほぼ近い位置にそれらは位置していると考えている。この部分についてまた新しくnoteがひとつ書けてしまうと思うが、簡単に言うならば、痛みを感じる主体をひとつと数える一種の功利主義的な考え方をするならば、この主張はある程度筋の通るものとなる。)


上のように、果たしてヴィーガンの主張することを頭ごなしに僕らは無視できるだろうか。僕はもちろん肉を食べるけれども(倫理の実践と理論がある程度離れていることを僕は2個前のnoteで書いたことで言い訳をさせてほしいが)、それでもヴィーガンの主張するものにも、一理あるものは紛れている。ヴィーガン論で失敗する例は、すべてを感情に起因する論理にしてしまうものだ。一理あるヴィーガン論は必ずしも人間の感情に依存しない。その一理あるヴィーガン論については、僕は少なくとも反論できないし、皆も少しは耳を傾けてみてもよいのではないだろうか。

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