【読書ノート】16「満鉄調査部とアジア」原覚天
●満鉄調査部
1907年3月に創設された初期調査部は翌8年12月に調査課に改称され、それから所属部署は幾度か変わったものの、1933年1月、調査課が経済調査会に改編されるまで25年間にわたって続いた。(25)
満鉄における調査は、初めから植民地研究、満鮮歴史地理研究、国際情勢研究の3つを目的とするものであった。
●文装的武備
彼(後藤新平)は調査の必要性についての主張で、しばしば「文装的武備」という表現を使っている。その意味するところは「文事的施設を以て他の侵略に備え、一旦緩急あれば分断的行動を助くるの便を併せて講じ置く事」をいうものであった。つまり経済的な発展はもとより、教育、衛生、学術など広い意味での文化社会の建設をすすめ、金満民衆がこの植民政策にもとづく経営に自然に傾倒する、その「民主的基礎」の確立を重要視するものであった。彼は、そのことが武備にまさる重要性をもつものとするのであった。
彼のいう「文装的武備」の要諦について、もう少し立ち入っていうならば、「植民政策はつまり文装的武備であり、王道を旗をもって覇術をおこなう、こういうことが当世紀の植民地政策である」というにある。彼は、文装的武備について自ら問いかけ、調査機関、中央試験所など列挙し、原住民教育、そのほか学術的、経済的関係の文化侵略についてもいうものであるとする。(21-22)
●北一輝の「日本改造法案大綱」
大正の終わりから昭和の初めにかけて、陸軍の将校たちの間でひそかに北一輝の「日本改造法案大綱」が読まれていたといわれる。・・・つまり、国家統制の下に「国民の生活権利」を保障し、公平な分配の下に「国家の繁栄」を期することを目標とするものである、というにあった。・・・しかしそれが国家の性格づけにおいて明確な方向を示しているものだけに、大きな影響力をもったことは言うまでもない。・・・つまり、日本の腐敗した政党や飽くなき利潤追求の資本家階級が満州に流れ込み、満州の権益をほしいままにすることを防ぎ、満州において理想とする経済開発を推し進めようとするものであった。このためにも国家社会主義的な政策理念に関心をもつに至ったものである。(112-114)
●拡大調査部の総合課
ところで拡大調査部の運営とそこでの調査研究の方法はどのようなものであったか。ここでの主役は総合課であり、それは言うまでもなく「調査機関に活動が活発となり且適正であるために全機関が一体的に運営されることであり、更に各現地の情勢が調査に其の儘反映することが必要で、調査そのものが地についたものである為に、各出先機関との有機的統一的な連繋を保ちつつ現地的に活発である」ことを必要とする、という意図に基づくものであった。このためには、一方において現地機関重点主義をとりながら、他方においては、全調査機関業務の企画運営を総括し、各機関の業務を総合するための組織であった。その連絡、調整、企画、立案、指導にあたる機関として設置されたのが総合課であった。総合課はいわば調査部の中枢機関であり、運営の政策集団でもあった。(218-219)
●支那抗戦力調査(中西功、尾崎庄太郎、具島兼三郎、尾崎秀実)1940年
彼が問題に入るにさきだって、まず前衛的に重視したことは、中国における抗戦力形成の基本的な要素は「中国社会の本質を根底とする」ことにあった。すなわち、それは「半植民地状態下にある半封建的な国家である」ということにある。・・・中西がことさらにこのことに言及したのは、「近代国家にはその戦時体制に於て近代国家としての因果律が働き、半植民国家(あるいは半封建的な国家)はそれ独自の因果律をもつ」。したがってその戦争能力形成はこのことを明確にしておかなくてはならないということである。(242)
中国での生産物の大部分は農産物であり、物資の量的集成は大きい。そのことが都市に占領されても農村は「抗日陣営の根拠」をなしており、都市を喪失しても農村それ自体自給の可能性を持っている。このことが戦争を長引かせ、「持久戦」の経済的根拠をなしているものである。しかも半植民地的な中国経済の性格は、外国援助を可能にし、中国の抗戦力に寄与することが極めて大きなものとなっている。以上のことからも明らかなように、中国の調査における方法は、何よりも中国社会そのものについての洞察から出発するものであり、それらは独自の実証研究にもとづくものではなく、多くはこれまで主としてマルクス主義者たちの規定をよりどころとするもので、その規定に基づいて実験主義的実体観察からの解明にあたったと言ってよいであろう。(245)
こうした惨憺たる情勢を背景として、この国の政治機構は大幅な再編成が必要とされていた。しかしそれを不可能ならしめている幾つかの障害があった。「支那の政治上の動揺の決定的なことは国共分裂」であり、奥地の経済建設のテンポがきわめて緩慢であるのもこの階級対立によるところが大きかった。・・・こういった考察のもとに結論付けていることは、中共が完全に統率しうる軍隊を持っているのに対し、国民党が最初から中共に引きずられ、中共からあらゆる理論、戦術を借りているということ、「その上に三箇年以上も抗日を宣伝し、この抗日の陰にかくれて国民に犠牲を強いて来ている。この雰囲気はすでに全国に達しているので、もしもこの大義名分を中共に独占され、その武装力によって攻めたてられたときには、十年の内戦の経験をよく知っている蒋介石および国民党にとって敗北は」あまりにもはっきりしているというのである。中国の対日抗戦がどのように形成されるかについては、このように国内政治の局面における中共の優位とその軍事力の指導性からかなりはっきりと結論づけていることが何よりも注目される。(249-250)
※日本の現在の開発調査組織にも「総合課」に匹敵する部署が必要なのではなかろうか
※226事件の思想背景もまた北一輝であった。陸軍将校たちの間で国家社会主義的な政策理念はかなり広まっていたと思われる。マルクス主義はどうであったのかも興味深い。
※1940年の満鉄調査部の「支那抗戦力調査」において中国共産党の内戦勝利を予測出来ているのは驚き。
(2021年3月19日)
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