【読書ノート】2「学問のすすめ 現代語訳」福沢諭吉
数年前に発売された福沢諭吉の「学問のすすめ 現代語訳」を読んだ。実は「学問のすすめ」を読むのはこれで3回目であり、最初は大学生の時、そして数年前にこの現代語訳を読み、今回それを再読した。この現代語訳シリーズは文章がわかりやすくてお勧めである。同じシリーズで渋沢栄一の「算盤と論語」も少し前に読んだが、この本は原書が難解で理解しにくいと言われていたので現代語訳は大変助かった。「学問のすすめ」の原著はそれほど難解でなく誰でも読めると思うが、何年か前に読んだ「文明論の概略」は難解で読解に骨が折れた記憶があるので、ぜひ同じシリーズから現代語訳を出版して欲しいと願う次第である。
1873 年から1876年にかけて書かれた「学問のすすめ」は言わずと知れた福沢の代表作の1つで、当時日本の人口の10%の人が読んだと言われる大ベストセラー である。当時の読書階級の人はほとんど読んだといわれるくらい有名であったため、その影響力はかなりのものだったと想像出来る。内容は今で言う辛口評論の ような感じで、維新直後の日本の風潮を批判しながら、独自の見解を解りやすく明快に述べており、1世紀以上経った現在においても全く古さを感じない。以前 読んだときは「開発途上国の政府官僚に読ませたい」と感じたことを憶えているが(既に英訳されている)、よく考えてみれば1世紀以上前の福沢の辛口批判は (残念なことに)現在の日本に多くの部分が依然として当てはまることに気がついた。それについて順を追って詳しく見ていくことにする。
この文章は明治維新の数年後(1873年)に徳川幕府時代を批判して書かれたものだが、驚いたことにそれから140年近く経った現代の日本においても同じことが当てはまるようだ。日 本国を実質的に支配している「お上」である中央省庁の官僚たちは、自らの保身のために無用な天下り先を国民の税金で勝手に拵え、財政赤字を補うために何も 解っていない政治家たちを唆して消費税を増やそうと画策している。福沢の主張する「政府と人民の対等な関係」は日本国においては未だに実現されていないよ うである。
この福沢の文章で「おまかせ民主主義」という言葉を思い出した。日本では大事な国政選挙でも投票率が他の先進国に比べてかなり低いことが多く、「自分には関 係ない」という人が数多くいる嘆かわしい状態が続いている。米国では一般の人々は自分たちの生活に直接関わるので政治・政治家には日本より遥かに一般の人 たちの関心は高い。日本では未だに真の民主主義は定着していないようで、「主人」である「お上」と無関心な多数の「客」が厳然と存在している。この原因は 日本人の個々人の多数に真の独立の気概が形成されておらず、「お上」や「国家」(そして自分の所属する組織)に受身で頼っている状態が続いているからであ る。
こ れは日本政府が長きに渡って続けてきた「対米従属外交」を思い出す。相手に媚びへつらい、恐れ、だんだんそれに慣れ、恥じるべきことを恥じない、まさに 「日本国の卑屈」そのものである。同じ米国の同盟国である欧州諸国と比較すれば、その不条理なまでの従属ぶりが明白であろう。現代においても「日本人の卑 屈」は未だ克服されていないのである。
これも現在でも思い当たる節がある。官僚の中にも優秀な個人はいくらでもいるが、結局各省庁の「組織の論理」に翻弄され良い政策を実行することが極めて難し い。組織に逆ったため潰されたり追い出されたりする有能な官僚もいる。結果として自己保身が基盤の「国益よりも省益」が本道となる。「気風」とは現在では 「組織の論理・空気・圧力」と言い換えることが出来るのではないだろうか。優秀な個人を活かすことが出来ず飼い殺しにする日本型集団主義思考に基づく組織 の「気風」は、現在も受け継がれていると言わざるを得ない。
「赤穂浪士」の 話は今でも多くの日本人に愛されており、現在に至るまで数え切れないほどの映画、ドラマ、小説となり親しまれている。福沢のように彼らを完全に否定する者 は日本人では少数派に属すると思われる。しかし彼がここで主張していることは法治主義の大切さであり、いかなる理由があろうとも国民が法を無視して私的制 裁を勝手に行うことは正しい行為ではなく、もしそのようなことが続けば無秩序が生じ最終的には無政府状態の混乱を招くことになるということである。これを もっと悪くした例は私的制裁の対象を政府に向ける場合であり、これはクーデターとなる。(義憤に駆られた陸軍皇道派の若手将校が政府閣僚たちを暗殺した2・26事件が良い例。)この場合も国家に大きな混乱をもたらす事になる。
これも現在でも 通用する極めてまっとうな意見である。現代でもイラク戦争から始まって若者の貧困や所得格差の拡大など様々な問題があるが、決して「信念曲げて政府に従 う」ことをしてはならない。「自分には関係ない」「仕方が無い」などと考え何もしなければ決して社会は良くならない。しかし政府の政策に反対だからと言っ て「力をもって政府に敵対する」こともやってはならない。一世代前の学生たちのように暴力によって革命を起こそうとする運動は結局何も政府を変えることは 出来なかった。必要なことは「身を犠牲にして正義を守る」ことであり、例えば平和的な戦争反対デモや反貧困活動の集会などに参加したり、非暴力的な方法の 政府に要求を訴え政策を変えるための活動に多くの人々が参加したりすることである。これらの積み重ねによって時間はかかるかもしれないが社会はより良い方 向に変わっていくはずである。
これと似たようなことを内村鑑三が「後世への最大遺物」 で述べていたことを思い出す。この世に偉大な業績を残した者たちはやはり似たような思想をもって生きたのであろう。私が思うにここで述べられていることは まさしく福沢自身のことであり、数々の著書と大学という形で福沢の生きた証は後世の子孫に伝えられ、彼の思想に触れられるその恩恵に私を含めた多くの人々 が感謝している。福沢の言うように我々がこの世に生まれてきた目的の1つは、何らかの形で自分の所属する社会に貢献し、他者にプラスになることを行うこと である。100年以上前の福沢の教えは決して時代遅れになることはない。
欧米社会でス ピーチが重要視されていることは、今も当然変わらない。米国の大学では1年次に必ずスピーチの(そして作文の)授業を取ることになっている。大統領選挙な どの様子を見ても、スピーチや討論(ディベート)の力がどれほど選挙の結果を左右するかは言うまでもないだろう(オバマ現大統領の勝因の1つはそのスピー チの上手さにあった。)英国の有名な「スピーカーズ・コーナー」(ロンドンのハイドパークにある、誰でも日々自説を論じることの出来る場所)はいつも賑わっている。
その反面、福沢が100年以上も前にスピーチの大切さを述べているのも関わらず、日本では今に至るまでスピーチの社会的重要性の比重があまり高くないようである。スピーチによる意思伝達よりも「根回し」「その場の空気」「あ・うんの呼吸」などのような日本型非論理的なコミュニケーション(と意思決定)が相変わらず支配的であることは非常に嘆かわしいと言わざるを得ない。
特にひどいのが「政府の議会」であり、官僚の作成した原稿の棒読みが主流を占めて、欧米の議会では当然であるはずのきちんとしたスピーチ(と討論)が出来る政治家はほとんどいない。それゆえ「たとえ議会を開いたところで、議会も何の役にも立たないだろう」という福沢の言は、現在の日本国の国会のことを指しているとしか思えないのは大いなる皮肉である。
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