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「自己愛の不徹底」1

「自己愛の不徹底」

拙著「小林秀雄論」より抜粋


自明の事と言えば自明の事だが、本当に我々は自分自身を愛しているのだろうか。さらに言えば自己認識をしているのであるか。我々は通常では自己愛を悪しきものとみなしている。無論、狭義の意味で用いられているのだが、その判断は何の根拠があって、誰によって、何の為に悪しきものと決定されたのか?殆どの人々はこの日常何気なく使われている言葉すら理解もせずに使っている。

真の自己とは何か? 我々が人間と呼ばれ、生き、生活する。一体我々はどこから来て、どこへ行くのか? そもそも我々は現実には存在しているが、その存在の意味は有るのか無いのか? 等々。これら非常に素朴な問いすら我々は日常的生の中にあって自らの意志で問うてはいない。天災、人災等によって精神の或は生命の危険によって始めて生存の理由の問いに意識が向かう。だが、そのうち習慣や本能、宿命という、曖昧かつ便利な言葉のなかで思考停止する。自己保存本能と呼ばれるこの反応は無意識、意識的に働く。

自己保存本能?皮肉って言えば我々を生存さしむるに足るような意味や根拠など一体どこにあるか。その位なら動物や虫ケラ、自然界のすべての存在にだって在る。弱肉強食が自然界の摂理であるか、法則であるか。たまたま人間に考える力が具わっていたので自然界で力を持ち得たのか、等々。

現代の最も有能とされる哲学者ですら紀元前の哲学者達を超えてはいない。ソクラテス、プラトンはもとより、ピュロン(前360~270)という懐疑派の中心人物の世界の入口でまごついているのがせいぜいの有様である。彼の相対的思考は徹底している。「断定しないということも断定しない。」と。ピュロンはこの世界観をインドの地で学んだ。二-チェ流に言えば「消極的ニヒリスト」に殉じたのである。皮相な色即是空を体現したにすぎない。最も現代人と比較すればピュロンの方がはるかに筋金入りである。

 

無私を手に入れたが自分自身も虫になってしまった。カフカの「城」ではないが方向性を、意志を完全に喪失してしまったのだ。判断停止とは思考の結果得られた考えであり、その結果は彼個人がこれ以上自分は考える方法が見い出せぬ、と自ら限界を引いたことによる。これは彼を守る為の単なる精神衛生学にすぎない。さらに言えば自己探求の放棄にすぎぬ。人生を達観する世界観など毒にも薬にもならぬ。ところが現代ではこの世界観が流行病となっているとなっては由々しき問題である。他にも神秘主義的世界観があるが、真の神秘家達は現実を軽視、或は遊離など断じてしない。現実世界のなかにこれら全て含まれているからだ。単純な言い方をすれば知覚力の深浅にすぎぬ。不可知論の信奉者は単に己れの知覚力の鈍さを語り、信じ込んでいるにすぎない。

今日ピュロンのひねた子供達はそこかしこに存在する。ピュロンを前にしてはパスカルといえども手がつけられぬ。何を言ってもピュロンは「そうかも知れぬが、そうでないかも知れぬ」と一切を相対化するのである。生きているのか死んでいるのか、その判断も下せぬ。さらにはそのような問答も、状況すらも在るのか無いのか、等々。きりがない。ピュロンに対して私が「君は結果として空間自体と化した。それも実体を伴わぬ。」と言えば彼は「そうかも知れぬ、そうでないかも知れぬ。」と答えるだろう。さらに私が「その君の世界観は思考の結果の果てに達した結論で、君のその返答にもその君が道具として用いた思考が無意識的に働いている。でなければ返答すら出来まい。」と突っ込んでも「そうかも知れぬし、そうでないかも知れぬ。」頭も無ければ尻尾も無い、まさに空間そのものとも言えるが、毒にも薬にもならぬこの意識はあらゆるものに対して偏見をもたぬという意味では必要な意識でもある。

白痴とも無邪気ともいえて、この意識を空間として所有し活動すればいかなる状況においてもバランスを保つ事が可能となるからである。

ソクラテスにとってはピュロンの世界観は自明のものであり、その上で、さらにあらゆる人々に意識的な対話を通して、無知の知への自覚に至らしめる為に活動していたのである。このソクラテスの所有していた地下水脈を小林秀雄も又、確実に所有していた。


「自己愛の不徹底」2
https://note.com/umezaki/n/n0066756c2f17



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