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【映画エッセイ】「時計仕掛けのオレンジ」~Queerなのは、一体どのアレックスか~
例えて言うなら、サブカル御殿の玉座に座っていらっしゃるようなこの映画。名前だけは知っていたが、観たことはなかった。このたびアマプラで無料になっていたので観てみることに。こんなディープインパクトな映画を前に僕に語れることがあるかどうかわからないが、鑑賞記録として残しておきたいと思う。(部分的にネタバレします)
ちなみに、最低限の事前リサーチで、この映画は一人で観なくてはいけない、家族と観るのは絶対にNGだ、ということは知っていたので、それだけは守りました。(この事前情報は本当にありがたかった…)
4つのフェーズ
誰がどう見てもそうなると思うが、この映画は、主人公アレックスの状態によって、4つのフェーズに分けることができる。すなわち、
フェーズ① 抑制のない暴力と性暴走のフェーズ
フェーズ② 刑務所生活のフェーズ
フェーズ③ 施術によって暴力と性が強制抑圧されたフェーズ
フェーズ④ 自殺未遂によって暴力と性暴走を取り戻したフェーズ
となる。順にみていくこととする。
フェーズ①抑制のない暴力と性暴走
ありきたりで申し訳ないが、このフェーズのアレックスは、比喩の存在である。妄想世界の住人ともいえる。
この映画は、公開直後、監督のキューブリックに多数の脅迫状が届き、イギリスにおいては実に20年以上も上映が禁止されることとなるが、その原因はこのフェーズ①にある。無論、その暴力性と胸糞の悪さのせいである。
リンチ、暴力、強姦、強盗、数々のバイオレンスが30分ほど、コミカルな音楽とともに画面上を支配する。そのインパクトたるやすさまじい。確かに、これをまともな現実として観てしまうと嫌悪感の霧がかかって何も見えないだろうと思う。僕は、このフェーズはメタで捉える必要があると感じた。
僕は以前、大江健三郎の「セヴンティーン」の解説記事を書いたが、それにかなり近い構造をこの映画は持っていると思う。
フェーズ①のアレックスは、全10代の精神世界を、とりわけ全く抑圧されていない本能を、すべて宿した存在であると言える。「セヴンティーン」の”おれ”が10代の陰鬱な悩みや葛藤をすべて背負った存在であったのと構造は同じだ。アレックスは陰鬱でなく、内向きでなく、外に向けて徹底的にバイオレンスを放つ存在として擬人化されている。
こういうと、暴力性は人間の本能だ、と言っていることと変わらない。申し訳ないが、私は事実そうだと思っている。自然の世界を見れば一目瞭然だ。弱いものは食べ物も性行為の相手も、ひいては命まで、暴力によって強いものに奪われる。性善説だの性悪説だの言う前に、人間も一つの動物である。そういう受け入れが僕の底にはあるので、アレックスを一目見て、あぁ、まだ抑圧されていないヒトを描こうとしているのね、と了解した。アレックスが、作家の家へ押し入って奪って殴って犯して、やりたい放題している場面は作中屈指の胸糞シーンだ。しかし、それは自然界で起こっていることと何ら変わらない。その辺のゴリラやライオンを捕まえてきて、このシーンを見せても、「当たり前のことだ」と鼻くそをほじるだろう。
ちょっと別角度での補足もある。上記バイオレンスのほかにアレックスの日常を覗いてみたい。ギャング仲間とのリーダーポジションの奪い合い、小競り合い、学校という組織への拒絶反応、両親との決定的な価値観の溝、ファッションとしての宗教(キリスト磔のフィギュアが4体意味ありげに映し出せれる)、”本物の”芸術への傾倒(ベートーヴェンの音楽)などが見えてくるわけだが、明らかにこれは10代の精神世界が託されている。
このフェーズでバイオレンス以外にも、自由への渇望や、審美眼の存在、宗教への敏感さ、などが描かれているのは、フェーズのモチーフが”単なる本能”ではなく、”10代の本能”であることを示している。そしてこの細かい設定は、フェーズ②の「成長や教育」というモチーフを輝かすために必要な認識である。
まとめよう。フェーズ①のアレックスは、10代の抑圧のない本能むき出しの観念的な存在である。ホッブズの「万人の万人に対する闘争」を地でいく世界観がそこにはある。
フェーズ②刑務所生活のフェーズ
作中、最も平和な場面である(と私は感じた)。アレックスは番号655321という囚人となり、徹底的に管理される。
管理というとイメージは悪いが、そのおかげでこのフェーズがもっとも秩序を保ったフェーズである。アレックスにもこの時には落ち着きが見られる。
例えば、入所時の持ち物検査。白線で止まれと言われれば抵抗せず止まり、持ち物を全て出し、尻の穴まで黙って調べられる。さらには、動機はどうあれ、聖書の勉強にも精を出すようになる。看守とのやり取りには、なかば親密さ滑稽さも感じられるし、監獄の彼の部屋は整然として安定感があった。
番号で管理される無機質さはそこにはなく、むしろ、本能の暴走を他者によって止めてもらった落ち着きが滲んでいる。
このフェーズ中、彼はバイオレンスを煮詰めた存在から、人間性を獲得した存在となった。成長したのだ。
それは何によって可能になったか?
他者によってであり、大人によってであり、規則によってであり、檻によってであり、法律によって、である。
平たく、法治国家制度によって、民主主義によって、教育によって、彼は獣から人間になったのだと言える。
本フェーズこそ、作中唯一の光のフェーズである。キューブリックは、本能としてのバイオレンスは、先人たちが積み上げてきた人間社会の規範によって、コントロール可能であることに希望を見出した。本フェーズのアレックスの表情は、明らかに、その他のフェーズとは雰囲気が異なり、優しく理知的である。
フェーズ③施術によって暴力と性が強制抑圧されたフェーズ
本フェーズでアレックスは無謀な人体実験によって、「時計仕掛けのオレンジ」となる。一切のバイオレンス、性の事象を受け付けない(想起すると強制的に嘔吐を引き起こす)身体になってしまうのだ。ちなみに、タイトルでもある「時計仕掛けのオレンジ」とは、イギリスで「奇妙なもの」を指す時のおなじみの言葉らしい。それは、queer as a Clockwork Orange<時計仕掛けのオレンジのように奇妙な>という慣用句が存在していることからも伺える。
フェーズ①の暴力渦巻く状態は、いわば制御の利かない獣の状態ではあるが、それでも自然状態ではある(だって獣は自然の一部だし)。フェーズ②は、監獄ではあれ、アレックスは、統治された人間社会の中にいる。法治国家であり民主主義国家の市民である。そしてこのフェーズ③こそ、獣でもない、人間でもない、時計仕掛けのオレンジ状態、”奇妙な状態”なのである。
作中の政治家や医者たちは、この状態のアレックスこそ真に素晴らしい状態であるかのように振る舞う。これこそ正義のあり方だ、というわけだ。だが、そんなわけはない。その皮肉をキューブリックはどう描いたか。彼は、アレックスを獣にも人間にもなり切れない、極めてもろく、弱く、不安定な存在として画面に映した。
人間になり切れないアレックスは、まず家族を失う。自分の代わり(それは両親に新たな息子ができたことを意味する)が我が家に住んでおり、家を追い出される。次に、獣になり切れない(暴力を奪われた)アレックスは、暴力による報復を受ける。かつてリンチした老人に、恐怖政治を敷いた仲間たちに、徹底的に打ちのめされる。そして最後には、あの作家に、この世の地獄を味わわされ、身を投げるに至るのだ。
獣でもなく、人間でもない存在とは一体何なのだろう。きっとそれは、獣から見ても、人間から見ても、さぞ”奇妙なもの”に違いない。あえて比較して言おう。真の化け物は、フェーズ①のバイオレンスの権化のアレックスではない。フェーズ③の時計仕掛けのオレンジのようなアレックスである。
フェーズ④自殺未遂によって暴力と性暴走を取り戻したフェーズ
というわけで、フェーズ④にてアレックスがバイオレンスを取り戻したことは、彼自身の問題から言えば、事態は好転した、といえる。少なくとも、奇妙な存在ではなくなった。獣には戻れたのだから。
この締めくくりは、我々に何を伝えるだろう。アレックスはまた、今日の晩にでも、物乞いをリンチするかもしれない、あなたの家へ侵入し、暴行や強姦や強盗をするかもしれない。彼は獣であり、人間の皮を被った獣はごまんといる。
ここからみんなでフェーズ②へ行かないか、キューブリックはそう諭しているのではないか。フェーズ②には自由や快楽と引き換えに、成長や教育や規則や勤勉があった。少なくともあろうとしている。何もかも獣じみたこの世界で、唯一、まだ耐えられる選択肢に積極的になろうと言っているのではないか。
檻や決まりや法律は、不自由だ。政治家は嘘つきで、看守は不平等で、物乞いはいなくならない。
だが、少なくともその世界では獣から身を守れるし、その気になれば教育や成長も可能だ。何より自然の摂理の外にある”奇妙な世界”ではないのだ。
一般的に不評なバッドエンドと言われる本作品だが、この終わり方は僕は結構好きだった。ここに何らかのメッセージを見い出せないなら、この映画を語る資格はない、それほどまでに意図され、洗練されたラストだったと僕は思う。
消えた終章
実は、この映画には本の原作がある。だいぶ長くなってしまったので、もう詳しくは書かないが、その原作のラストは映画とは全く異なるものだ。原作では映画のラストからもう1章だけ続きがあった。
それは、アレックスの昔の暴力仲間に子どもができ、アレックスもそろそろ結婚を考える、というものだ。家族を持ち出せば、なんでもハッピーという、とってつけたような終わり方で驚く。
キューブリックは、そんな非リアルでお茶を濁したようなラストは嫌だった。現に彼は、「(21章のことを)もちろん知ってはいたが、使う気はさらさらなかった」と言っている。これを聞いた原作者のアンソニー・バージェスは、激怒したとかしなかったとか。
ひ弱なハッピーエンドよりも、苛烈なバッドエンド(に一見見える)をキューブリックは選んだ。彼は、信じたに違いない。映画を観る人間たちが、自らを獣とすることを良しとしない、ということを。また、人間たちが築き上げてきた社会の不自由さは、悲観するものではなく、必要悪であると気付ける賢明さを備えていることを。
最後に
サブカル映画界隈で伝説の扱いを受けるこの映画。まぁ、カルトチックというか、メッセージ性が異常に高いのは噂通りだった。けれど、正直、僕は、「この映画が一番好き!」「人生を変えた一本!」という人間とは仲良くなれない。むしろ距離を置きたい(笑)
同年代の映画なら、普通にロッキーとかジョーズとかスターウォーズとかの方が面白いし、爽やかだし、5000倍好きです。