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【映画エッセイ】もののけ姫 〜メッセージ性の強い物語とは何か〜

映画なり小説なり物語を批評するにあたって、"メッセージ性が強い"という評価がある。主に、肯定的な意見で用いられ、その評価を受ける作品はあまり多くはない。

少しアンケートを取ってみよう。

同じジブリ作品である下記の2作のうち、どちらがよりメッセージ性が強いと思うだろうか。できればその理由もあわせて考えてみてほしい。

①天空の城ラピュタ
②もののけ姫

私個人的には、②のほうがメッセージ性が高いという評価がしっくりくる。もちろん、どちらも面白くて、傑作であると思うけれど、メッセージ性、と言われると、悩むことなく②である。

もしかすると、これを読んでくださっている方も、私と同じ感想を持っているのではないか、と想像する。今日は、物語におけるメッセージ性の強さ、というものを「もののけ姫」を具体例として考えてみたい。


◯メッセージ性と脱構築論

いきなり結論めいたことを言うが、メッセージ性の強さは、物語の脱構築と関係があるのではないか、と思っている。

脱構築とは、構造主義からの脱却である。では、構造主義とはなにかといえば、ものすごく雑に言って、個々の事物よりも全体のパターンを重要視する論法のことである。物語に話を持ち込むと、代表的なのが二項対立構造、である。善と悪、とか、理性と感情、とか、男と女、とか、主と従、とかである。こういうVSの関係を確たるものとして描き出す物語は、構造主義的である。勧善懲悪の物語などは、構造主義的物語の典型例と言って良い。

そして、脱構築とは、この確たる(おなじみの、と言ってもいい)パターンからの脱却を目指す物語のことである。ここでは、二項対立構造からの脱却、と狭義に解釈してもらって構わない。VS関係を抜け出そうとする物語を脱構築的な物語と考えてもらいたい。

脱構築とメッセージ性の強弱がどのように関連しているのか、という説明は、後に取っておくとして、まずは、「もののけ姫」がいかに脱構築的であるかを確認することにする。

◯「もののけ姫」はどのように脱構築的か

脱構築するためには、そもそも脱却するべき構造がなければならない。その点、「もののけ姫」という映画は、二項対立の宝庫である。主なものを3つ挙げよう。

①自然(獣・森の神々)と文明(人間)の対立

シシ神の森とたたら場の対立は、本作のメインテーマと言って良い。

②善と悪の対立

強いて言うならば、エボシ率いるたたら場の人間が「悪」であり、「加害者」であろう。逆に、自然側は「善」であり「被害者」と認識される。なぜ人間側が「悪」なのかといえば、それは2者のうちの強者であり、生活が足りている側だからである。つまり、VSを引き起こすのも、やめるのも、その選択権は人間側のみにある。選択権のない方が被害者だろう、ということだ。

③生と死の対立

たたり神の呪いや病気、戦に代表される死、シシ神の森の豊かさやたたら場の村の活気に代表される生、の構図だ。

さて、舞台には上記のような大きな二項対立の構造が横たわっているのだが、「もののけ姫」の登場人物は、これらの構造を見事に解体していく。一度わかりやすく定義しておこう。

「もののけ姫」とは、舞台と観客の心のなかに巣食っている二項対立をそれぞれの登場人物が解体していく物語である。

さて、では順に確かめていこう。

①自然(獣・森の神々)と文明(人間)の対立構造の解体

ここの解体工事の責任者は、サンである。彼女は、自然側に属していながら、生物的には人間であるという点で、存在からして構造に馴染まないキャラクターである。彼女の存在により、自然と文明の境界線は、ゆらぎ、曖昧としてくる。アシタカを助け、モロに腕を食いちぎられた瀕死のエボシのトドメを見送る彼女は、単なる自然側の戦闘員ではない。その証拠に、彼女の分身とも言える山犬の子供は、イノシシの死骸の山から人間の男たちの協力によって救出される。

②善悪の対立構造の解体

ここの工事現場の責任者は、エボシである。先程、私は、たたら場の人間が「悪」だといった。それは、自然との戦いを引き起こした側、選択権を握っている側だからである。だが、この善悪の構造も、物語を追うに従い、霞んでくる。それは、エボシにも戦うだけの真っ当な理由があるからである。彼女の行動原理は簡単だ。弱い人間の味方、である。病気をしている人間をかくまい、仕事を与えた。世間では立場の弱い女に責任ある仕事をさせ、男との主従関係から開放してやった。エボシにはエボシなりの正義があることを知ったとき、観客は、思い込みの善悪が、ただのコインの裏表であったことを知る。象徴的なのは、サンがたたら場を単独で襲撃し、エボシと一騎打ちになるシーンだ。最終的にアシタカが2人の間に入って争いを止めるが、あの場面では、もはやサンとエボシに善悪の色はない。ただ、異なる2つの正義があるのみである。サンもエボシも、結局は似た者同士なのだ。ここに勧善懲悪を超越した脱構築の世界がある。

③生と死の対立構造の解体

ここの解体責任者は、シシ神である。シシ神は、生死の表象である。彼の歩いたあとには、草花が芽生え、育ち、やがて枯れる。生と死のどちらもが一度にやってくる。シシ神を中心とする生死の循環が、優しくもなく、厳しくもなく物語を神秘的に包みこんでいる。生きることは死んでいくことであり、逆もまた然りだ。生と死のダイナミズムの前には、争いも対立もその意味を失う。

④アシタカの役割

アシタカは、それぞれの解体現場の総監督である。最も非構造的なキャラクターだ。彼は、最初から、どのポジンション取りもしていない。自然とも人間ともつかない中立のポジションである(人間でありながら、超人的である)。さらにいえば、呪いによって死につつありながらも、銃弾の傷を癒やしてもらって、かろうじて生をつなぐ、といったように、生と死のはざまに漂う存在でもある。ひたすらに、境界線の上に居続ける主人公なのだ。彼の役目といえば、他の解体者のサポート、である。サンを守り、エボシを理解し、死神となったシシ神に首を返す。観客は、彼の目線で物語を追いかけ、彼と行動をともにするにつれて、どんどん典型的な二項対立構造から脱却していくことになる。

終わってみれば、あちらこちらにそびえていた対立の壁が、各キャラクターによって曖昧に溶かされ、観客は、もはやAorBという思考回路から遠く離れた場所に立っている自分に気がつく。ラストシーンでは、サンは森で暮らし、アシタカはたたら場で暮らすことで落ち着く。落ち着く、といっても、これにて一件落着!の最後ではない。振り出しに戻っただけ、かもしれない。問題は何も解決していないのだから。それでも、その振り出しに戻ったことに何か意味があるのではないか、と思わされる。AもBも選びとらなかった、そのことにこそ、何か意味があるのではないか、そういう感じがしてくるのである。

◯メッセージ性とは、次元の切り換えである

ここで話を元に戻そう。脱構築とメッセージ性の関係についてだ。

構造主義的な映画は、AとBの境界をはっきりさせる。典型的には、どちらかが善でどちらかが悪である。観客は善側の登場人物を物語上で追体験する。やってくるのはハッピーエンドであり、問題解決であり、スッキリ爽快な気分である。マーベルのヒーローものなんかはとてもわかりやすい例だ。

一方、脱構築的な物語は、複雑である。AもBも正義だったり、AとBは根っこでは同じものだったり、AとBに引かれていた境界線が動いたり、消えたりする。

AとBという対立構造は、言い換えれば、二者択一であるわけだが、脱構築によって生じるのは、AorBの選択肢の放棄であり、選択肢Cへの旅の始まり、である。

今選べるのは、AとBだけれど、そのどちらも適当でない気がするから、選択することをやめて、Cを探すよ、というのが脱構築的エンディングだ。

これは、次元の切り換えと言えるだろう。「手持ちにはマシな選択肢がないので、新しいものを探します」という時、物語はまた新たな旅立ちを迎える。そして、旅立ちとは、成長であり、成長とは"今の自分ではない自分になること"である。こうした自己や世界の変容によって、AやBとは異なる次元にあるCが選択可能となるのだ。

よく心理学で言われることだが、悩みや葛藤を克服する時に肝心なのは、自己成長である。断じて、手持ちの中から無理やり選択し、納得しようとする自己欺瞞ではない。その時に選択肢に入れられない別次元の選択肢を得ようと決心することこそ、本当の解決への道なのである。

脱構築の物語は、観客に「既存のAとBの選択肢を捨てて、新たな旅に出ろ」と訴えかける。映画の登場人物では解決できなかった宿題を渡されるわけだ。当然、色々考えさせられる。あるいは共感し、あるいは思考し、計算し、あるいは仮説を立て、あるいは説得を試みる。要は、能動的な対応を求められるのだ。もうおわかりと思う。物語のメッセージ性が強い、とは、AorBの選択肢のうち「絶対Aだよ!」という声が大きいことを言うのではない。「AもBも選ぶには値しない。さて、もっとマシな選択肢Cはないかね?どう思う?」という複雑な宿題を提示する作品を指して、我々はメッセージ性が強い、と言っているのではないかと思うのだ。

◯提案

他の作品で言えば、「ダークナイト」や「マトリックス」も脱構築的な映画かもしれない。「ダークナイト」では、正義のための暴力と、無目的の暴力の境界線が次第にぼやけてくるし、「マトリックス」では、現実と虚構の対立関係が解体される。いずれも物語が進むにつれて、AorBといったシンプルな命題を放棄して、新たな次元の新たな価値観を受け入れたり、発掘したりする作業を要求されることになる。

二項対立の解体を目指す映画は、観客に複雑な思考と価値観の刷新を迫る≒(メセージ性が強い)、という仮説が正しいのかどうか、それは正直わからない。

けれども、検証する価値はあるのではないかと思っている。もちろん、これは映画だけでなく、小説や劇などすべての物語において言えることだ。

正しいかどうかはわからないが、こういった物差しをいくつか持っておくだけで、物語を見るときの目は、段違いに鋭くなる(と思う)。以前、「映画の黄金パターン」として、汎用性の高い物差しを紹介したが、今回のも、そこそこ役に立つのでは、と内心思っている。ぜひ、この仮説について皆さんの感想など聞きたいなぁと思っている。

【参考記事】

参考記事①映画の黄金パターンについて

参考記事②脱構築論について


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