見出し画像

【短歌】イメージをたどる一首評~より深い読み書きのための基礎知識~

はじめに

どうしたら短歌の技術を積み上げられるのでしょうか? 筆者は短歌をはじめたてのころ、歌作が上達せず、歌会でうまく発言もできず、もやもやしていた時期がありました。

いま思えばその原因は、歌作では何となく詠んでいるだけで、評はその場しのぎで作品に反応しているだけだったからでした。

基礎になる考え方がなかったのです。だから、思考が毎回ゼロ地点に戻ってしまって、進歩を感じにくく、指針がありませんでした。

もし分析の基礎となる理屈があれば、より細かい点で差異を出すことができると思い、ベースとなるものを整理しました。実際に一首評をしながら考察していきます。

一部、過去に書いた記事と重複する内容がありますが、今回はより全体像がわかりやすくなるように書き直しています。


■短歌とは?

「短歌とは何か」と問われたとき、歴史を踏まえた回答も可能ですが、シンプルな説明は「5音・7音・5音・7音・7音の31音で作られた定型詩」というものでしょう。もちろん、季語は不要です。

個人的には「おおよそ5音・7音・5音・7音・7音の音数のフレーム(句)で作られて、短歌として提示された詩」を、短歌として認識します。破調も立派な短歌の技法だと思います。一旦、筆者の認識を示すために定義に触れましたが、本題ではないので、議論に深入りはしません。

■短歌と短期記憶

最近重要なポイントだと思っているのは、短歌が、短期記憶に適した形になっている点です。不思議なことに、ある短歌を一度読んで、再度文頭に戻って読み直そうとすると、イメージ全体が頭に残っているはずです。

その理由はまず、5・7・5・7・7のリズムが口になじみやすく、暗唱しやすいからでしょう。例えば、百人一首のカルタはそれぞれの歌のリズムがよいため、意味が分かっていなくても覚えられてしまうこともあります。百人一首の歌は、短歌というよりも和歌ですが。

次に、短歌はちょうどよい情報量になっています。文字数の都合で、短歌が提示可能なイメージの容量はある程度決まっています。各歌によりますが、大抵は1首に含まれる名詞の数が5個以下、動詞は3個以下でおさまり、特別な意図がない限り、文脈をもった文章になっています。

短歌を読むと、少しの間だけ「あるイメージ」が忘却されないまま、全体として立ち上がります。この想起されるイメージを対象に、分析を進めたいと思います。

■イメージの発生と受容

ファーストインプレッション(初読の印象)

複数の歌を引用すると混乱させてしまうと思いますので、この記事を通して1首のみで話をします。とりあえず、下記の歌を読んでください(できれば歌集を購入してください)。

煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火

井上法子『永遠でないほうの火』

▼書肆侃侃房 書籍紹介ページ


―――引用歌を一読してから進んでください―――


脳内にどんなイメージが湧いてきましたか? ここで着目したいのは、歌の内容が一連の思考の流れとして発生する点です。これは短歌に限らず、文章の読解全般に当てはまるごく普通の現象です。

初読時に、「鍋とは何か」「煮えたぎったとはどんな状況か」等と立ち止まって疑問をはさむ隙間はあったでしょうか。大多数の方は、まず全体の意味を取りにいこうとしたはずです。森を見るために、木単体ではなく、森全体を見ようとするように。

この、自身の中で発生した思考の流れがどのようなものだったか、書き留めておくとよいでしょう。その思考の流れがどうして発生したのか分析するのが次の段階です。

初読時の印象はご自身のいまの感性に対して正直に現れるので、なるべく楽しみましょう。ここからさらに詰めていきます。

外部要因と内部要因

ある短歌に対して、自身の感性を疑った読み方もしていきましょう。短歌は単にテクストを読んでいるだけだと思いがちですが、様々な要因に影響を受けてイメージを立ち上げています。

筆者はその要因を「外部要因」と「内部要因」に分けました。外部と内部の中間地帯もあって明確に区別できない部分もあるのですが、以下に簡単にまとめてみました。詳細を知りたい方は別記事をご参照ください。

▼読みの外部要因と内部要因(別記事)

(1)外部要因
外部要因
とは「テクストの文字以外で読者の解釈に影響を与える、読者にとって外的な要因」と定義できます。具体的には以下のような例があります。この記事上で対象とする「テクスト」は井上の短歌です。

■媒体
・掲載媒体(紙、電子書籍、音声等)
・どんな掲載方法か(雑誌か、歌集か、歌会の詠草一覧か等)
・媒体の物としてのありかた(歌集の外装、雑誌の外装等)
・雑誌であればどんな特集か
・文字のフォント
・挿絵 

■隣接するテクスト
・同じ連作の前後の歌
・同じ歌集の前後の歌
・同じ雑誌の前後の歌 

■作者情報
・経歴、過去の作品、性別、職業、筆名 

■情勢
・感染症が流行っているから、作品内でも読み取る
・戦争が起きているから、作品内でも読み取る
等々

井上の歌に適用するなら、読者の皆さんがこの記事(noteのウェブサイト上)で読んだ場合と、紙面で読んだ場合では、印象が変わっています。歌集の中の1首として読んだ場合や、連作内の1首として読んでも、別のテクストが影響して、違った読書体験になったことでしょう。

もし、「永遠の火」をウェブ検索して、ゾロアスター教の寺院にある、絶えず燃え続ける炎について知ったらまた読み方が変わるかもしれません。それを井上の歌と関連付けるべきかどうかは要検討ですが。

作者の井上法子についての情報があればまた、読み方が変わるかもしれません。作者の情報を読解に取り入れるなら、評のアプローチはテクスト論ではなく、作家論に入り込みます。

井上法子が短歌の「私性」について研究をしていた知識があれば、作品内の主体の見え方が変わってくるでしょう。

テクスト以外の要素を読みに加える行為には、良し悪しがあります。歌会や、新人賞では作者の属性情報を除く目的から、テクスト単体の分析が基本です。一方で、歌集の評では作者の取り組みを評価するために、作家論が主流になっているようです。この辺りのすみ分けは、評者の考え方やその場の状況によります。

(2)内部要因
内部要因
とは「テクストの文字以外で解釈に影響を与える、読者にとって内的な要因」と定義できます。具体的には以下のような例があります。

■過去の経験
・知らない経験についての表現は迫ってこない
・自身の経験と作品の経験が重なるとき表現が迫って感じる
・初読と、2回目以降の読みで印象が変わる

■言葉への感受性
・気持ちよく感じる単語、感じない単語がある
・輪郭を感じる単語、感じない単語がある
・文語は硬質な感じがする。

■信用判断
・信用できない情報は嘘っぽく感じて迫ってこない
・信用できる情報は迫って感じる

■読み書きの「モード」
・ファンタジックな雰囲気を感じる
・アニメのような描写がされていると感じる
等々

内部要因は読者がテクストを読んだときの、①イメージの再生と、②感情的な反応に影響を及ぼします。内部要因は人生経験から複雑に作り上げられるものなので、個人差が大きい部分になります。皆さんの脳内に生じたものが、どんな影響を受けて発生したのか検証してみましょう。

①イメージの再生

文字の表面的な意味情報は共有されていても、読者の皆さんの脳内で流れるイメージは、それぞれ細かく違っているはずです。

井上の歌に書かれた事実をまとめると以下のようになります。しかし、脳内で再生されるイメージには何かしらの情報が追加されていませんか?

■書かれていること
・煮えたぎる鍋がある
・鍋を見る視点がある
・視点の人物もしくは、何者かが「だいじょうぶ」と発言している
・「永遠でないほうの火」がある(「永遠の火」もある?)

基本的な話ですが、文字は線の組み合わせにルールを持たせて、そのルールを共同体で共有しているため、意味が伝わります。筆者が「鍋」と書いて、皆さんが食品を煮る器具を思い浮かべるのは、文字の意味をルールとして共有しているからです。

ここで「スキーマ」という考え方を導入できます。「スキーマ」とは過去の経験・記憶によって構造化された概念です。「鍋」という文字だけ読んだとき、皆さんは「鍋」についてのぼんやりとしたイメージを思い浮かべることができると思います。それが「スキーマ」です。皆さんは過去に様々な鍋を見てきて、その結果、一般的な「鍋」のイメージを作りだし、保持しています。

スキーマよりも細かいイメージを伝達するためには形容詞などで修飾して、情報量を増やす必要があります。情報が増えることで、読者のもつ過去の経験のシーンからイメージを引き出したり、新たな経験を想像してもらえます。歌作では、スキーマを足掛かりに、読者の経験をさかのぼるような、スキーマの発生とは逆ルートの動きをします。

井上の歌に戻ると、初句では「煮えたぎる」と描写しているため、「鍋」に水分と熱が追加され、料理をしているイメージが共有されます。どんな料理をしているかは書かれていないため、スキーマとしての「鍋」以上のイメージが発生するかは、読者の皆さんの経験が影響します。もしかすると、鍋に具が入っている方もいるでしょう。本質的な問題とはいえませんが、初句の時点でイメージの再生のされ方にブレが生じるでしょう。

加えて、批評ではなく、感想の領域になりますが、一首の歌から、自身の記憶が連想されたり、新しいアイデアをひらめいたり、メッセージを受け取ることもありえます。

こういった「外れ値」のような発想を評に組み込むかは自由です。しかし、歌会で他の評者が困らない程度には、その発想が一般的な読解のライン上にあるものか、ご自身の経験に強く紐づいたものかの区別ができるようにしておくとよいでしょう。

②心的な反応

イメージが再生された後は、それに対する反応が生じます。いくら自分は理性的だと考えていても、心的な反応によって理解度や納得感が変わってくるなんてことはよくある話です。これは情報処理のプロセスです。

作品に対する反応としては、穂村弘が『短歌という爆弾』(小学館、2000年)で述べた「共感と驚異」が有名ですが、自身の反応を単純化してしまう危険性があるので安易に使わないほうがよいでしょう。以下に参考となる反応のパラメーターを挙げますが、さらに項目を見つけられるかもしれません。

■既知、未知
⇒短歌にかかれた情報を知っていたか、知らなかったか。知っていたなら、いつどこで知ったか。実際に体験したのなら、どのような体験で、どんな感情と関連付けられているか。知っていなかったのなら、想像の範疇のものか、想像を超えるような内容か。

快不快
⇒短歌にかかれた情報は、自分にとって快いものか。快いなら、どこがどのように快いのか。不快ならどこが不快なのか。どのような経験を経て、その情報に快不快を感じるにいたったのか。その快不快は作品に寄与するか。

信用判断
⇒短歌にかかれた情報は、自分にとって信用できるものか。信用できるものなら、どうしてか。信用できないなら何が原因か。信用できなくても、フィクションとして楽しむことはできるか。

記号接地
⇒短歌にかかれた情報は、自分の経験や身体感覚に紐づいているか。表現が迫って感じるか。表現が単なる記号として、遠く感じるか。

井上の歌に戻すと、「永遠でないほうの火」はおそらく読者が知らない情報で、読者に驚きをもたらす「発見」です。とくに不快感を与える描写はなく、「だいじょうぶ」という言葉や状況から、その発見はむしろ安心感を与えます。

フィクション、ノンフィクションの判断はこの作品解釈には不要と思います。強いて言えば、生活描写に、幻想的な雰囲気を追加した、フィクション寄りの作り方でしょう。作中に現れる声には切実さがあり、信用できそうだと感じます。「だいじょうぶ」は安全性を他者に伝える、良心的な言葉だからでしょうか。

「鍋」と「火」は大変身近な素材です。鍋の硬い質感や、火の熱さは、生活していればいつの間にか経験しているたぐいものです。今回の井上の作品は視覚の歌ですが、読者は過去の経験から、作品中に視覚以外の身体感覚を持ってくることも可能です。

読み書きの「モード」

モードとは、どのような角度から作品を読み書きするかを決める方針といえます。これは内部要因の一種です。様々な作品のイメージが再生された結果、反応が蓄積され「モード」が発生します。これは作品単体ではなく、共同体で共有されているものだと思います。

あいまいな説明になっていますが、モードを使った理解は雰囲気を感じとるものです。よくいわれる文体、作風、ジャンルの言葉と意味が近いです。「短歌」という分類もそうですが、区分を作ることで認知を楽にするためのシステムなのでしょう。

以下で、簡単に「モード」の影響をまとめています。詳細を知りたい方は別記事をご参照ください。

▼読み書きの「モード」とファンタジー短歌(別記事)

■形式
フィクション/ノンフィクション
:作品が現実に基づくか、虚構か。
ジャンル:ロマンス、ホラー、ファンタジーなど。
言語:使用される言語。
韻律:短歌内の音のリズム。
視点:作品の中で視点(第一人称、第三人称など)。
描写のスタイル:アニメ的、絵画的、映画的、ドラマ的、コメディー的、メルヘン的など。
レトリック:比喩、象徴など。

■意味内容
世界観:時代、地理、社会背景などの環境についての設定。
ルール: 作品内での物理的または社会的規則。
人物像:主体や語り手が描写される場合、その人物の性質。
モチーフ:描写される物やできごと。

現代人は様々なメディアを通して作品を摂取しているため、最初に作品を読むための枠組みの認識があって、その期待の下で作品を読んでいる可能性が高いです。

作品を読む際には、過去に作られてきた数多くの作品を経た、どの地点にその作品があるのかを考えることができるでしょう。作品を作るなら、どうやって、過去作品と近づき、ずらすのか検討すべきでしょう。雰囲気を整えるためには、ジャンルごとによく使う、あるいは使わない言葉があるので、言葉の調整も必要になります。

井上の作品では、生活的でありながら、どこか神秘的な雰囲気を漂わせています。視覚の描写と、聞くというよりは聞こえてしまう声の表現はどこか映像作品の作り方を感じます。ゆったりとした遅い描写が定点カメラの映像のようで、ショートフィルム的な作り方です。

雰囲気はテクスト上に直接に現れるものではないので、だれもが納得できる感覚ではなく、評に入れにくいです。「そう感じる」としか言えません。しかし、感情的な反応以前にもたらされる質感を見落とすと、作品の下に流れるものに触れることができず、不十分に感じてしまいます。評に入れる、入れないは別としてアクセスできると嬉しいポイントです。

■イメージ操作と処理

ここからは「どのような操作によって反応が起きたのか」の検証に移ります。最近の口語短歌では、ここが差別化ポイントになっている気がします。

以下にいくつか例示します。例は操作の一部でしかないため、他にも独自の操作を検討するべきでしょう。

■現実感覚の表現
⇒「いま、ここ」にいる感覚を伝える。感情であれば、切実さなど。物であれば、迫ってくるような生々しい描写など。

時間感覚の表現
⇒時間の経過を表現する。時間の感覚を遅く感じる表現をしたり、逆に速めるたりする。

カメラワーク
⇒描写する角度や、動きを工夫する。心の視線誘導。メディアによって自然に学習したカメラワークの技法を作品中にも応用する。

レトリック
⇒体言止めや、リフレインのような既存の修辞技法を使って、読者に効果的に表現を理解してもらう。

現実感覚

現実感覚は、「リアリティ」と呼ばれることもあります。「フィクションにもリアリティがある」といった問題や、「そもそも現実とは何か」といった問題があるので個人的には「生々しさ」と呼んでいます。本来はこの説明のために何首か歌を引用すべきですが、一首評から離れるので、以下に別記事リンクを貼っておきます。

▼短歌の「生々しさ」について(別記事)

作品中で情報はどのように処理されるか

情報処理は一連のイメージの流れの中で有機的に行われています。わかりやすくするために、井上の歌を三分割して操作をみてみましょう。全体としては、「いま、ここ」の表現になっていますが、細かい操作がなされています。

①煮えたぎる鍋を見すえて
⇒「煮えた」ではなく「煮えたぎる」なので、現在進行形で熱湯が泡立つイメージが発生します。これだけならイメージ継続時間としては3秒ぐらいでしょうか。「見る」ではなく「見すえて」なので、一時的な行為というよりは、鍋をずっと見ていた様子です。直火で加熱した場合の沸騰までの時間、つまり、最低でも5~10分はその場にいたことがわかります。この点は再生されるイメージとしてではなく、背景情報として読み取れそうです。「て」で終わらせることで、動作を継続させ、3句目につなげます。短歌では助詞ひとつでも雰囲気が変わります。

②だいじょうぶ
⇒前後に全角の一字空けがあり、3句に「だいじょうぶ」が挿入されています。一字空けには用法がいくつかありますが、井上の歌では時間感覚の表現と、声をエフェクトとしてわかりやすく挿入するための前後空けになっています。「煮えたぎる鍋を見すえて」で、ゆっくりした時間が流れ、一文字あけていることで動作の時間が延長されます。持続時間は2、3秒ぐらいでしょうか。「だいじょうぶ」の声の後の一字空けでは声の余韻を感じる時間が入ります。

③これは永遠でないほうの火
⇒全体的に描写は定点カメラです。③の下の句の部分では、①で鍋を見ていた視点がややずれて、鍋を熱する火を見ています。①までであれば、普通の生活の光景です。しかし、単なる火に「永遠の火」「永遠でないほうの火」という区分が与えられることで、火の見え方が異化されます。②の声が入ることで、永遠を考える行為に、どこか神秘的な印象を与えます。

③は内容が七・七でまたがっており「これは永遠/でないほうの火」と句を分けることができます。「これは永遠」まで読んで、「永遠?」と一瞬だけ疑問が生まれます。そのまま読み進めると、「でないほうの火」と言われて否定される作りになっています。物についてイメージを出現させて「~ではない」と消す方法は「見せ消ち」と呼ばれますが、概念である「永遠」においても「見せ消ち」に近い操作がされています。

最後に、結句を名詞で止める体言止めになっている点にも触れた方がよいでしょう。体言止めは諸刃の剣ともいうべきレトリックです。井上の歌のように物の名詞のイメージで終えることで、そのイメージが最後に残り、強く印象付けることができます。

一方で、下手な名詞で止めると、オチがついてしまうようで、読者を萎えさせることがあります。歌舞伎の「見得」のようなもので、印象が最後に集まってしまう点が体言止めを難しくさせます。

■表記・音の分析

ここまでで57577全体の印象、57577の句間に発生する操作を見てきました。ここからはより細かい表記と音の部分に触れていきます。本質的なトピックではありませんが、ここの処理がうまいと加点していけるようなポイントです。

加点ポイントとはいえ、細部の詰め甘さが目立つと、あまり信用できない作者だと思われてしまうかもしれません。手をぬかず調整していくとよいでしょう。

表記の分析については、前述した外部要因の内容と重なります。ただし、外部要因のほうはイメージが再生される際に、無意識的に参照される内容です。表記の分析は、全体⇒細部の読みの流れで最後に分析するであろうポイントなので、意味合いが異なります。ここでは最後に意識すべきものとして、表記を再登場させています。

以下のような点がポイントです。

57577のフレームの使い方
⇒31音の定型になっているか。字余り、字足らずはあるか。一行書きか、多行書きか。

文字の表記
⇒日本語か、別の言語か。日本語なら漢字、カタカナ、ひらがなのどれで書いているか。

韻律
⇒音声にした場合に、作品の内容にあった雰囲気の音になっているか。リズミカルな音になっているか。

57577のフレームの使い方

31音の型通りの作品のよさもありますが、57577のフレームには柔軟性があり、工夫の余地があります。歌人の奥村晃作は以下のように各句のキャパシティーについてポストしています。

短歌において、過去の歌人による破調の先行作品は数多く存在し、特に驚くものでもありません。57577のフレームから大きくはずれた自由律の作品も存在しますが、こちらは作品によって振れ幅が大きいので、ケースバイケースで判断するべきだと思います。定型感覚を利用するか、しないかの判断は各人でするべきものでしょう。ちなみに井上の歌では、句またがりがあるものの、全体としては31音で収まっています。

文字の表記

文字の表記はわかりやすいですね。外部要因の話でも触れましたが、歌の見え方が変わってきます。特に、漢字をひらく(ひらがなにする)かは歌の見栄えに影響します。極端なものだと漢字だけの歌、ひらがなだけの歌も存在します。

筆者の体感ですが、漢字は紙面を黒くする比率が大きいため、色のコントラストに影響するほか、画数が増えて印象を硬くします。作風によっては硬質な雰囲気にするメリットもあるでしょう。

加えて、漢字のほうが情報を増やせるため、読みをコントロールしやすくなります。「きく」を「聞く」「聴く」「訊く」などと変えるだけで状況を表現できます。文脈からわかることですが、「きく」が「菊」のように別の意味に取られてしまう、つまらない誤読も防げます。

井上の歌では、なるべく表記をひらがなに寄せ、雰囲気をやわらかくする意図を読み取れそうです。特に、「だいじょうぶ」が漢字の「大丈夫」ではないところに注目したいです。漢字をひらくことで、やわらかな音声としての表現になっています。

韻律

韻律の分析では、よくローマ字にして分析するケースがあります。井上の歌を見やすくするため多行書きとし、母音を太字にしました。

ni e ta gi ru
na be o mi su e te
da i jyo u bu
kore wa e i e nn
de na i ho u no hi

母音では、iとeが若干多いです(a5個、i7個、 u5個、e8個、o5個)。子音ではnが若干多いですね(b2個、d2個、g1個、h2個、j1個、k1個、m1個、n4個、t1個、r2個、s1個、w1個)。

母音、子音の分析については、あまりコンセンサスがないと思いますが、よくあるのは、母音ではaとiはあかるい感じ、oは落ち着いた感じになるというものです。子音では、kの子音は硬い感じ、sやzの歯擦音の子音は鋭い感じがするという話もあります。dの子音などの濁音系は重たさを感じるかもしれません。

また、同じ母音がつづくとリズムがよいなどと言ったりします。各句で韻を踏んでいてもリズムがよくなります。これは連作の話ですが、口語短歌はうまく構造を散らさないと動詞の現在形(読む、する等)終わりやすくなり、uで終りやすい厄介な傾向があります。

井上の歌では、初句と2句で子音nが続いていたり、4句と結句で母音iとeとが続いていることで、リズムが発生しています。歌の意味に直接かかわりませんが、読み心地のよさは記憶の残りやすさにつながるため無視できません。

韻律の分析については、様々な先行研究があるものの、統一的な理論はないため、自作の方向性にあわせて最適化を続けていくべきと思います。

その他

今回選んだ井上の歌は、分析がうまくいきやすいもの選んでいます。当然ですが、読み取りがうまくいかずエラーが発生するケースも想定されます。そんなときは、どの地点で自分がイメージを再生できないか、理解が止まったのかを考えるとよいでしょう。以下の記事では読み取りエラーが起きやすい点をまとめています。

▼ファンタジー短歌の方法①心象の発生段階(別記事)

さいごに

いろいろ書いてきましたが、本記事の内容は作歌時には一旦すべて忘れてください。最初の発想の段階でごちゃごちゃ考えると支障をきたします。理屈から歌を作ると、歌作に慣れている方には手つきが透けてしまう他、意味の飛躍や発見の強度が弱くなり、詩としての強みを失いかねません。

本記事は、推敲の段階で利用するか、慣れてきて無意識のうちに処理できるレベルになったら、発想段階でも取り入れてください。ご自身が短歌でやりたいことがあれば、基礎の上にオリジナリティを追加していくことができるはずです。

宣伝

辻原は2024年12月1日の文学フリマ東京39に参加します。評論と作品集を頒布予定です。noteの記事にご興味をもたれた方は、ぜひお気軽にブースへお立ち寄りください。


いいなと思ったら応援しよう!

辻原僚(短歌)
最後までお読みくださりありがとうございます!スキ❤️はnote未登録でも押せます!よろしければお願いします!