ばあさんズは、棍棒を手に手に……
みなさんに、ぜひとも落ちてほしい沼がある。
その名も、『フィンランドの昔話』沼。
もう好きすぎて最近会う人みんなに勧めているのだけれど、切ないことに絶版の、狂しく愛おしい本である。
P・ラウスマー 編、臼田甚五郎 監修。
岩崎美術社から出ている『民芸民俗双書』の60巻目にあたる。
「フィンランドの昔話」。
そう聞くと、アニメ版ムーミンのような癒し系をイメージする方も多いかもしれない。
私自身も初めてこの本を大学の図書室で見かけたときには、ほっこり系だと信じ込んでいた。
ところがどっこい、この本にはハートウォーミングな物語はほとんど入っていない。
むしろ予想の斜め上というか、あまりにも不条理というか、「えっ、いま何が起きた?」とぽかんとしてしまうような話ばかりが、52話も収められている。
例えば、「熊と狐」。
ざっくり書くと、こんな話だ。
終わりぃ?
ちょっと待って、嘘でしょ?
熊はただ、真面目に働いていただけじゃん。
どう考えても、報いを受けるべきは狐じゃん。
えっ、この教訓「あくせく働かず頭を使ってうまくやるべよ」って話?
いくらなんでも、あくどすぎない?
と、唐突な終わり方にまずびっくり。
ていうかフィンランドのばあさんって、なんでそんなに勇敢なの?
日本では熊に襲われた人が時々ニュースになってるけど、フィンランドでは積極的に撃退しにいくスタイルが普通なの?
と、棍棒を手に現れるばあさんのタフさにまたびっくり。
ツッコミも理解もまるで追いつかない、常人からかけ離れた倫理観と独特すぎる世界観。
詐欺師風の狐と善良そうな熊が出てきた時点で、私は勝手に「狐が熊を騙して、最終的には懲らしめられるんだろうな」と思い込んでいた。
「お前たちの泉を荒らしてしまうぞ!」
そう狐が叫んだのは、ばあさんたちを逃がしてその混乱に乗じてトンズラこくためなのかと思い込んでいた。
実際には熊は騙されっぱなしだし、狐は最後までうまくやるし、ばあさんズは棍棒を持って熊をぶちのめしに向かってくる。
この肩透かし感というか、ぽっかりとだだっ広い砂漠に身を放り出されてしまうような感じに、くらくらきてしまう。
それは、「これはこんな展開だろう」「ふつう報われるよね」、そんなふうに規範意識や教訓を待ちながらきゅっと固まっていた気持ちが、勢いよく更地にぶん投げられたような。
そうやって何度も何度もぶん投げられているうちに、固まっていた気持ちのシワがじわじわ伸ばされて、まっさらに戻っていくような。
そうしてそれがひらひらと自分のなかに戻ってきたときには、「ま、そんなこともあるかぁ」と清々しく投げやりな気分になって、なんだか身体が軽くなるような。
そんな、本である。
ミステリーでもないのに読者の予想を裏切り続ける『フィンランドの昔話』。
イチ読者としてはその摩訶不思議な展開にビビることも多々あるけれど。
この突き放し方の潔さこそが、この本の醍醐味なのかもしれない。
試しに「おいおい」とつっこみたくなったところに、付箋を貼ってみた。
そのうえで、特徴を分けて書き出してみる。
まず「約束は破ってもわりとOK」からいってみよう。
OKなわけないじゃん、ここ昔話やぞ?
と思うでしょう。
ところがどっこい、約束を守らない人が救われたり、ちゃっかり富を得たりする話がちょこちょこある。
主人公たちの名誉のために断っておくと、もちろん彼らの多くは約束を守れるタイプだ。
けれど時々、とんでもない奴がいる。
父親の遺言を三つすべてガン無視したにもかかわらず、それによって起きた災難を笑い話として話すことで婚約者の浮気を親戚の面前で暴いた青年の冒険譚「父の遺言」(しっかし、性格悪いよなぁ…)。
元魚の美しい妻の言いつけを守らず王の誘いに乗って何度も酔いつぶれた若者が、そのたびに妻を狙う王からあらゆる無理難題を押し付けられるも、呆れながら助言してくれる妻のおかげで王を消し、宝を手にする「魚釣少年」。
母の言うことを聞かずに出しゃばったせいで難題を吹っかけられ、母のアドバイスを忘れて難題解決の手助けをしてくれた大鷲へのお礼をしそびれた少年が、次に会ったときにお礼をすることであっさり許され、海の国に住む美女と結婚する「青い海の美女」。
鶴の恩返しや浦島太郎、うぐいす女房とは大違い。
奴らはかなり気楽に約束を破るし、相手は相手で「まったくあんたってば馬鹿ねぇ」とゆるっと許してしまう。
たった一度の過ちでそれまでの暮らしががらりと変わってしまうことは、昔話ではよく起きる。
そしてこの一度の過ちこそが、物語における最大の「転」にあたるのだと思ってきたのだけれど……。
この本に収められている昔話のいくつかでは、約束を破っても物語は平気で進行するし、なんだかんだ挽回のチャンスが与えられたりもする。
むしろ約束を守らなかったことで起きた厄介ごとをどう処理していこうかという展開の仕方をする話も、時々見られる。
そんな図太い開き直りと相手の寛容さはひょっとしたら、民話ならではのゆるさなのかもしれない。
本書の巻末には、その物語はいつ、誰から聞いたものかという詳細な記録が残されている。
人から聞いて書き残してきたものだからこそのざらりとした雑味は、ちょっと柳田國男編纂の『遠野物語』に通じる部分があるような気もする。
『遠野物語』で一番覚えているのは、自慢の娘が馬と夫婦になったからってぶち切れて父親が馬を殺し、娘は馬の首に乗ってそのままどこかへ行ってしまいました、という話だ。
……ごめんなさい、全然ゆるくなかった。
『フィンランドの昔話』に話を戻すと、これを子どものころに読んでおきたかったなぁと強く思う。
もしも浦島太郎や七夕伝説と一緒にこの物語に触れていたら、もうちょっと「ズルすること」や「約束を守れないこと」に対する罪悪感や嫌悪感が少なかったのではないかと思うのだ。
もちろん勧善懲悪や約束を守ることは、基本的には大事なことである。
けれど、「たまにはズルした方がうまくいくことだってあるよね」「約束破っちゃってもなんとかなるよ」、そう昔話がたまに肯定してくれるだけで、救われる瞬間もたくさんあったんじゃないかと思う。
「従姉が解いてくれちゃった宿題、明日そのまま提出していいかな」
「友だちに噓ついちゃった、もう学校行きたくない」
私はそんなことをうじうじ悩んでは、重石のような心を抱えて登校する子どもだった。
でもズルしたり約束を破ったことで揉めごとに発展してしまうこともあったけれど、杞憂に終わることもあった。
どちらの経験も重ねていくうちにやっと、「どっちに転ぶこともあるから、あまり悩みすぎるのはやめよう」と思えるようになったし、「現実において取り返しがつかないことは、実はそれほど多くはないのかもしれない」と気づけるようにもなっていったのだけれど。
正直、もともとこんなに「ズルはダメ」「約束は守らなきゃひどい目に遭う」なんて、思い込んでいなけりゃもう少し生きやすかったのになぁと思わなくもない。
いまこんなに「すごい威勢のいい婆さんたち出てきた!」「約束破ってまた酔っぱらったくせに、また助けてもらえるんかい!」と意外性を感じてゲラゲラ笑えるのは、「ズルせず真面目に生きること」「約束を守ること」がよいと刷り込んでくれた日本昔話のおかげではあるのだけれどもさ。
そんな思いを振り返っていたら、この本の特徴として挙げた「2.地獄に行くハードルが低すぎる」と「3.悪魔と人間の境界が曖昧」を書く余力がなくなってしまった。
たぶんここから5000字くらい語ってしまうような気がするので、それは次回に回したい。
あとでネタを忘れないためにも、ちょっとだけ予告しておこう。
地獄に行くハードルの低さについては、「クリスマス用に豚肉を分けてほしいんだけど」と兄に頼んだ弟が「いいけど、その代わり地獄に行って来いよ」と言われて素直に地獄に行く話について書きたい。
悪魔と人間の境界については、国を悩ませる魔王が「俺はあの青年がちょっと怖いだけで、ほかに怖いものなんてないんだぞ」と強がる話(いや怯えないでよ悪魔なんだから…)や、実の娘と結婚しようとした父親が娘に逃げられて怒って脱腸を投げつけ、その脱腸が首に巻き付いた娘は喋れなくなってしまうという話(悪魔みたいな親父だな…)について書きたいと思う。
どれもこれもツッコミどころ満載なので、気になる方はぜひ図書館でご予約を。
飄々と「昔話のお約束」を破りまくる、『フィンランドの昔話』。
一緒に沼に落ちてくれるお仲間を、手ぐすね引いてお待ちしてます。
第二弾はこちらです~!
そして第三弾はこちらです!
お読みいただきありがとうございました😆