解説・執筆感想『康子の部屋にて』
こんにちは! 小説と旅行が大好きな月見里です!
小説を書いているので、ぜひご覧ください!
今回は、私が執筆しnoteに投稿した短編小説、『康子の部屋にて』の解説と執筆感想を書いていきます。
以下、ネタバレを含みますので、先にこちらをご覧ください。
以下、前半が解説で、後半が執筆の動機です。
この小説の肝
この小説は、昔から使ってみたいと温めていた装置で書きました。
読んでいただければわかると思いますが、その装置とは、
信頼できない語り手です。
信頼できない語り手とは
小説論、物語論を知っている人はご存じかもしれませんが、叙述トリックの一種です。
具体的には、語り手、つまり地の文の信頼性を低くすることで、読者を敢えてミスリードする手法です。
ミステリー小説でも普通の小説でも、登場人物が嘘をつくことはよくあります。しかし、小説における地の文は絶対に正しくないと、わけがわからなくなってしまいます。
例えば、地の文で「~とAさんが言った」と書いてあるのに、実はBさんが言っていました、なんてことになったら、そもそも小説自体が成立しません。
そのため基本的には地の文は嘘をついていない、という前提の下で小説は成立しています。読者も、それを不文律で承知して読んでいます。
しかし、その前提を打ち崩して、なおかつそれを利用して物語を成立させる手法を、「信頼できない語り手」といいます。
一般的な地の文の種類
そもそも地の文は、主に二つ種類があります。小説の9割9分9厘は、この二つで構成されています(以下、Aを主人公、Bを他人とします)。
一つは、一人称視点です。「私は、Bのことを~と思った」、「私には、Bが~であるように思えた」などの文です。この視点では、主人公の視点がふんだんに取り込めます。その代わり、主人公が認識していないことや主人公がいない場面の話は書けません。
もう一つは、第三者視点(神の視点)です。「Aは、Bのことを~と思った」、「Bは、Aを~した」などの文です。この視点は、登場人物以外の視点から物事を語るので、一人称視点に比べて自由な表現ができます。その代わり、第三者視点はあくまで第三者なので、主人公の内面の心情の激しさや葛藤など、深く感情を表すのには向いていません。
一週目の『康子の部屋にて』の読み解き
さて、今回の『康子の部屋にて』では、地の文はどうだったでしょうか。
以下、起承転結でストーリーとともに追っていきましょう。
起
最初の一文は
です。
ここから、この小説は第三者視点で書かれているのだろうと、読者は不文律で脳内補完して読み進めます。
承
しかし、どこかおかしい。康子にやたら入れ込んでいるような気がする地の文。いつもと違う、いつもと違うのオンパレード。
地の文に違和感はありつつも、ストーリーは進みます。康子はいつもより長くシャワーを浴びて、綺麗な服を着て、恋人との逢引きの準備をているようです。
そして、和やかな恋人同士の逢引きが始まります。
転
ところどころ不自然な地の文が信頼できなくなる決定的な瞬間は、ここで訪れます。
地の文は、「康子はゴールデンウィークは仕事していた」と言っています。第三者視点の小説であれば、これが正しい事実なはずです。
しかし、当の康子は「ゴールデンウィークは新田と二人で旅行に行った」と言っています。
ここで、違いが生じています。
第三者視点の小説であると仮定すると、前者が正しいので、後者が間違っているということになります。
しかし、康子がここで嘘をつくとは思えません。
嘘をついたとしても、「新田と旅行に行った」と新田に言ったところですぐばれてしまいます。それに、ここまでの康子の様子から、二人は恋人同士であることは明らかです。なので、康子が嘘を言っているのはおかしいと考えられます。
ということは、仮定が間違っている――つまり、地の文が間違っている、ということかもしれません。
しかし、第三者視点の地の文が間違うなんてことはあるのだろうか……というところで読み進めます。
人一人はいれるくらいの大きさの戸棚の存在が示唆されます。不穏な表現です。
そして、「気温も湿度も増したような気がした」とあります。これは、誰の視点でしょうか。第三者視点であれば、「気がした」という表現は使われるはずがありません。
その後は、視線が感じられるなどと物騒な話になってきました。
当の部屋の主の康子は、戸棚に手が届かないから存在すら忘れていますし、視線も感じられないようです。
そして、新田と康子の二人の世界の、最後のシーン。
「ここまで」というのは、どういう意味でしょうか。
いったんこの文章は置いておいて、ここまでの流れから推測するに、新田は戸棚が気になって、その戸棚を確かめようと立ち上がっています。つまり、「ここまで」というのは、「戸棚まで」、という意味だと推測できます。
しかし、「ここまで」という地の文は、第一人称であれば違和感があります。第三者視点は、別名”神の視点”。つまり、登場人物がいる世界には存在していない存在です。
存在していないのに「ここまで」なんて表現は、第三者視点では使われません。
つまり、この文章は、この登場人物が存在してる世界に存在している何らかの者の視点で語られている、ということが感じられます。
結
そして、康子と新田の二人以外の存在による独白が最後に書かれます。
ここで、ここまでの第三者視点と思われていた地の文は、実は”ボク”という存在による一人称視点の地の文であったこと、そしてどうやら康子のことを好いてストーカーまがいなことをして戸棚にいたこと、そして康子に裏切られたと自分よがりに思い込み、危険な思想に陥っていることが明らかになって、物語は幕を閉じます。
この物語における『信頼できない語り手』の手法
最初に、この物語の肝は、「信頼できない語り手」と言いました。
つまり、この物語は、
地の文が第三者視点かと思いきや、実は存在が認識されていなかった限りなく第三者に近い者による一人称視点だった、という点を舞台装置として働かせているのです。
これにより、今までのやたら詳しすぎる康子の知識(序盤の「2年4カ月11日前に田舎を出て東京へ出てきた康子」という具体的すぎる数字や、頻繁に出てくる「いつもなら」)が、何でも知っている神の視点の第三者によるものではなく、こっそり戸棚に隠れている”ボク”によるものであった、というところにサイコホラーのジャンルが宿っているのです。
読んでいる途中にはホラーは感じなかった部分に、あとからホラーを感じることができる装置として生きています。
二週目にわかる、各文章解説
そしてその視点で読んでいくと、いろいろと合点が行きます。例えば、
目が眩みそうになっているのは康子ではなく、”ボク”だったことがわかります。
頭が真っ白になったのは、恥ずかしくなった康子ではありません。自分以外の男と逢引きをしていたことへのショックで、”ボク”の頭が真っ白になったのです。
このあたりになってくると、もうこの地の文が神の第三者視点ではないことを薄々読者が感じ取っていると期待しているため、わかりやすい表現を盛り込んでいます。
気温も湿気も増したような気がしているのは”ボク”です。自分のいる戸棚に視線が集中して、緊張感が増しているためです。
ここのやり取りは余計なように見えて消そうかと思いましたが、日常に潜む”ボク”という闇のことなんて知らずに、恋人同士幸せな空気を楽しんでいる、という対比を際立たせたい(ホラー映画でよくある、驚かせる前に緊張の弛緩を行わせるのと同じです)がために消しませんでした。
当然、ここまで「康子は美しい、清純、純朴」といった地の文が”ボク”のものであったのと同様に、↑の文も”ボク”によるものです。
”ボク”の知らないところで新田という恋人を作ったり父親に嘘をついたりなど、”ボク”の中にある純朴な康子像が、康子によって壊されたことで、可愛さ余って憎さ100倍で康子に逆上しはじめたことが地の文でもあらわれているのです。
この感情は、大きい小さいはあれど、誰しも思うことです。好きな人に振り向いてもらえなかったとき、仕事で信頼していた人がミスをしたとき等、勝手に自分が期待して、勝手に裏切られたような気持になったことは誰しもあるはずです。
しかし、ストーカー気質であったりサイコパスの人は、この感情が大きすぎる例が多いです。
ここまで詳しく時間を覚えているのが気味が悪いです。しかも、この数字は、どこか見覚えがありますね(序盤の方を読み返してみてください)。
この場面で、清純な康子、つまり”ボク”が作っていた理想の康子像は死んだ(現実の康子によって殺された)。のであれば、死なばもろとも、自分も康子も死のう、殺そう、と締めくくられます。
以上で、大体の本編の解説は終了です。粒だてると、各センテンスごとに解説できます。それほど、今回の小説は気を使いました。本当はもっと文字数を削りたかったのですが、これ以上削ぐと”ボク”による康子への思いの重さや康子の新田への恋心などがボリューム不足になってしまうため、2600字と2000字程度ギリギリになりました。
本作を書くきっかけとなった、影響を受けた小説
本作はサイコホラー(と私が読んでいるだけで、本当はもっと別の的確なジャンルがあるのかもしれませんが、とりあえずサイコホラーと呼びます)として書きました。
私は今まで、純文学やストーリー小説ばかり書いてきました。
例えば純文学だと、
ストーリー小説だと、
です。
そんな私が唐突にこのジャンルの小説を書いたのは、冒頭に書いた、前から「信頼できない語り手」に興味があったからというのももちろんありますが、もう一つ理由があります。
それは、最近読んだ小説に影響されたことです。
私が影響を受けた小説は、結構有名ですが、『向日葵の咲かない夏』という小説です。
読んでいない方は是非読んでみてください。
以下、ネタバレを若干含みます。
『向日葵の咲かない夏』のあらすじは以下です。
いかにも、ドラえもん映画のような、少年少女が夏休みに大冒険を繰り広げる、というような青春小説のようなあらすじです。
私も、読む前はそう思っていました。
しかし、読み進めると、ところどころ気になります。
もちろん、あらすじ通り、S君の死の真相等、シナリオ上のミステリー小説として気になる点もあります。しかし、それと同等に、ファンタジー要素の強い世界観、その割にはかなり荒んだ描写の家庭環境のシーンが気になるのです。それらはほぼ詳しく語られることなく進行するので、一層不気味さが引き立っているのです。
そして読んでいくと、衝撃の展開が……!!
正直、↑のあらすじでは想像がつかないようなサイコホラーっぷりに、私は驚きを隠せず、目を見開いて戦慄してしまいました。
私はこれまでの人生で、あまりミステリー小説やホラー小説の類は読んだことがなく、素直な純文学や大衆小説、新書などをもっぱら読んでいました。それらは基本的には素直に文章を読む本です。
それは、そもそもホラーというジャンルと文章という形態は、あまりマッチしていないとも思っていたからです。
怖いと思う時は、だいたいビジュアルや音による場合が多いので、ホラー映画やアニメ、人の語りによる怪談はホラージャンルと相性がいいと思っていました。しかも、映像や語りは読み手の意志に関係なく進んでいくので、心の準備ができていなくても驚かされます。しかし、紙に印刷された文字は淡々とした活字ですし、自分の意志で読み進められます。なので、ゆっくりと読めますし、心の準備もできます。なので、ホラー小説は、特段怖いと思うことはない、あるいは映画や語りのほうが上等だと思っていたのです。
しかし、そんな私の固定観念を、『向日葵の咲かない夏』は打ち砕いてくれました。
この感動を、他の人にも覚えてほしい。
その思いで、私は今回、2000字程度で短く『康子の部屋にて』を書きあげました。いつか、同じような装置を使って中編、長編を書きたいとも思っています。
皆さんにもサイコホラーの面白さが伝わると嬉しいです。
*
今回は以上となります。
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