読書メモ、観光大国スペインに見る、オーバーツーリズムの現在と未来
観光とオーバーツーリズムについて論じた本を読んだ。
ざっくりと自分の考えたことを書いておきます。
今世紀は、移動の時代とも言えるかもしれない。
2000年以前からも、飛行機や船でグローバルにつながってはいたが、まだコスト面や、言語、特に情報が行き渡っていなかったため、ほとんどの人は国民国家の枠内での人生で完結していた。
しかし、2000年をまたぐと、LCCによる移動コストの減少、そして何よりスマホの登場で、格段に移動しやすくなった。
今世紀の一番の違いは、モビリティかもしれない。
つまり、人々の人生が、1つの国家内だけで終わらなくなったとも言える。
これは、国民国家の見えづらいが前提になっているはずの、言語、民族、人種、生活形式などが、ある程度同質であることから、少しズレた形を生む。
わたしたちが、無意識的に、しかも悪気なく、仲間だと思っている範囲が変わると言い換えてもいいだろう。
近頃は、世界的に右傾化の兆候を示すニュースを頻繁に見るようになった。
著者は、これからは、国と国同士の戦争や対立も問題だが、「世界同時内戦」という形も論理的に推測できるとしている。
移動してきたものと、そこに住んでいたものとの軋轢が生じるのは、無理もないことだ。
先日のトランプ大統領の銃撃に関しても、そのような観点でも見れるかもしれない。米国内の仲間意識の調達が難しくなっているように思うが、それも移動するようになったからとも見えなくはない。いつか米国内で、内戦に発展するくらい人の内面に爆発寸前のエネルギーが溜まっているかもと思わされた。
東浩紀氏の観光客の哲学なども、こういった問題意識などを捉えているし、「個人」の追求と「国家」主義に分断して進む現在の状況から、観光客という第3の立場に、他者とのつながり方、共同体のあり方の希望を託しているとも言える。観光客という、若干無責任で、浮遊した主体のゆるやかな、つながりによって、過度なグローバル化や共同体ファーストな価値観に揺さぶりをかけて、偶発的な連帯から訂正し続ける個人や他者との関わりに希望を持っているのだ。
今世紀は、移動を前提にして考える必要があるのだ。
そうすると、国民国家という形も少しづつ訂正されていくしかないだろう。
一気に、これまでの国の形が変わることはないが、仲間意識が観光客によって訂正されると国家も変わらざるを得ない。
最終章に、移民の数とゼノフォビア(外国人ヘイト)について述べられているが、欧州ではイスラム系からの移民の割合が増えていて、人々の生活形式や感情に変化が起こっていることを論じている。
人の移動によって、国民国家のあり方や、仲間意識をどのように調達するか、かなり微妙なせめぎ合いというか、均衡を探すトライアンドエラーが繰り返されるようになるだろう。
本書の高城氏は、ベニドルムというスペインの街やシンガポールを事例に、ゾーニングや日本のETCのようなシステムで課金されるシンガポールの道路で、公共の道路や観光スポットに持続可能な資金を負担させるシステムが紹介されている。もちろんこれは日本において参考になる点も多い。まずは日本の観光スポットの料金は安いと思うので、まずはここから大胆に見直してもいいと思う。
とはいえ、このテクノロジーによる、ゾーニングや課金は、東氏が考えるような、偶発性は実装できなさそうだし、ただお金を取ることができても、その土地に住んでいる人たちの生活があまり見えづらいはずだ。
なので、テクノロジーを使うなら、観光客という偶発性を活かし、「弱いつながり」に出会うとか、「誤配」を強化するという思想が必要ではないかと思った。
定住をしない観光地という場所で、無責任ながらも、縁あった土地の未来を想像するとか、その土地の人たちの先の生活への想像力を刺激する工夫が必要だろう。そういった工夫が、観光客という第3の道を開くのではないだろうかと思う。
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