恋と学問 あとがき、一冊の本を読むということ。
最後までお付き合いくださった方へ、改めてお礼申し上げます。
今から200年以上も前に世を去った、江戸時代の学者である本居宣長(1730-1801)が、33才の年に完成させた源氏物語研究「紫文要領」についての、少しばかり長大な読書感想文、それがこの「恋と学問」です。今年で33才を迎える筆者としては、浅からぬ因縁を感じます。
2021年8月27日に筆を起こし、2023年12月23日に筆を置いたのですが、執筆の前に「紫文要領」を読む経験があったのは当然のことでして、それを含めると丸三年もかけて、この本と格闘したことになります。
われながら、「時間をかけすぎではないか?」と思わなくもないのですけど、一方ではやはり「仕方がなかったのかな」とも思います。そこで、「どう仕方がなかったのか」を今から述べて、あとがきに代えさせていただきます。
大体、一冊の本を読む、それも、名著とされる本を読むということは、かんたんに済ませられる話ではありません。クリスチャンは聖書を生涯かけて何度も読むでしょう。(まじめな)仏教徒は折に触れて経典を開くでしょう。それに比べれば、三年の月日などなんてこともないじゃないか、というのが一つ。
また、たんにこの本を読み終わるだけなら、三か月もあれば充分でしょうが、この本を読む行為には深い感動が貼りついていて、読み終わった瞬間から、これをどうにかする必要を感じていました。世間では、「言葉にならないほど感動した」という言い方が乱用されています。しかし、言葉を伴わない感動にも、なるべくなら形を与えるべきではないでしょうか?困難を承知で感動を言葉にしなければならない。さもなくば、感動の在り処は霧に包まれ、いつかは忘れ去られてゆく。そんな事態になるのを阻止するために、私はこの読書感想文を始めました。案の定、言葉にならない感動を言葉にする試みは難航し、「ああでもない」「こうでもない」と、時間ばかりが過ぎていった、というのが二つ。
あと、「個人的な経験と読書の厄介な関係」という問題もあります。具体的には述べませんが、恋をテーマにした本を読むに至ったには、それなりに個人的な背景があったのです。その背景が「トリガー」になって、真剣な読書が始まる。個人的な問題を解決する、少なくとも糸口くらいは見つかると思うから、真剣に読むのです。その結果、読書は「本に書かれている内容を理解すること」にとどまらず、「その内容から個人的な経験の意味を解釈すること」まで要求される行為になります。これは言われるまでもなく、たかだか一冊の本に対して過大要求でしょう。しかし、この過大要求なしに、真剣な読書はありえないのも確かです。そして、多くのことを背負わされた読書が、その速度を落とすのも必然です。これが三つ。
四点目としてあげたいのは、本居宣長の膨大な教養と含蓄に対抗するために、こちらも相当な「準備」をしたということがあります。この本に限りませんけれど、大切なことを伝えようとしている本は、どれも難解です。大切なことがかんたんに理解できるわけがないからです。どうしても、読み進めていくうちに「難読箇所」にぶち当たって読書が中断するということが起こります。中断の都度、私は「難読箇所」の理解を助ける書物を求めて、さ迷い歩きました。一冊の本、特に名著をよく読むには、こうして、膨大な量の読書が必要になるのです。
(末尾に「恋と学問」に登場したすべての参考文献を掲げておきます)
むろん、「難読箇所」を含め、本の隅々まで理解せずとも、大まかな理解を得ることはできます。いや、それどころか、「難読箇所」を「難読箇所」と思わないで、この本をやさしく読むことは比較的に容易だと思います。たとえば、「紫文要領は本居宣長による源氏物語論で、もののあはれこそ源氏物語の主題であると主張した」と、教科書的にまとめて、「もののあはれとは何かといえば、事に触れて感慨を催すことである」とでも言っておけば、それで結構解決した気にはなれます。
しかし、こういう本の読み方はむなしいと思うのです。読む前から見当がついていた物が、おおむね予期したとおりに本に書いてあるのを認めるだけの行為は、たんなる確認作業であり、「既知」から一歩も前に進んでいないという意味で、はじめから読む意味がない読書です。読まなくても分かっていたことは、むろん読むまでもなかったのですから。
私はこの本に感動し、それを読書感想文にして、感動に言葉を与えようと思い立った。その感動は「未知」のものだったから、言葉にするのはむつかしかったし、自前の言葉や考え方では理解に不足すると思えば、他の書物の助けも借りた。こんな風な読書だったからこそ、私の「未知」を「既知」へと押し上げた意味で有意義であったし、また、読みがいもありました。
有意義といえば、読書の「副産物」についても、一言添えておかねばなりません。私はこの「恋と学問」の執筆過程で、再び「論語」のことが気になりだし、孔子の言葉が持つ古代的な力に惹かれ始めました。こうして、読書は別の読書を呼び、また新しい感動を生む。この好循環は、やさしく読むことからは出てこないでしょう。
一冊の本を真剣に読む行為は、じぶんの人生の問題を「トリガー」にして、本に過大要求することに始まり、読み終わると未知の感動を覚えて、それを何とか言葉にしたいと欲望に駆られる所までがセットです。私の「恋と学問」は、それを実行に移した一つの実例と思ってください。
ここでも思い出されるのは、本居宣長の言葉です。彼はこう言っていました。「おのれ一人の心に閉じ込めておけなくなった思い、すなわち、おのれが知った物の哀れを、人にも是非知らせたいと願う心が、文学の源泉である」と。その意味では、私の感動もまた一種の物の哀れを知ることであったし、私の執筆行為の目的は、物の哀れを知らせることであったのかもしれません。
・・・さあ、言いたいことは、これで本当に尽きました。
みなさん、お元気で。いつかまたお会いしましょう。
2024年1月3日、東京北郊にて北陸の被災地に思いを馳せつつ。
【参考文献】(登場順)
大野晋『語学と文学の間』岩波現代文庫、2006年
・・・本居宣長の恋愛事情と、もののあはれの言語学的分析。
本居宣長『排蘆小船・石上私淑言』岩波文庫、2003年
・・・本居宣長の処女作と、重要な歌道論。
小林秀雄『本居宣長(上・下)』新潮文庫、2007年改版
・・・本居宣長と、江戸の学問史。
西尾幹二『江戸のダイナミズム』文藝春秋、2007年
・・・西欧、中国、および日本に同時発生した文献学。
村岡典嗣『増補本居宣長(1・2)」東洋文庫、2006年
・・・本居宣長に関する基本文献。
アリストテレース・ホラーティウス『詩学・詩論』岩波文庫、1997年
・・・カタルシス、文学の感情浄化作用。
ニーチェ『悲劇の誕生』岩波文庫、2010年改版
・・・アリストテレス「カタルシス説」の批判と、新たな意味づけ。
潤一郎訳『源氏物語(巻一から五まで)」中公文庫、1991年改版
・・・源氏物語の現代語全文訳。
菅原孝標女『更級日記』岩波文庫、1963年改版
・・・源氏物語の最初期の愛読者による随筆。
谷崎潤一郎『雪後庵夜話』中央公論、1967年
・・・光源氏の人格批判「にくまれ口」を含む。
丹波康頼撰『医心方 巻二十八 房内篇』筑摩書房、2011年
・・・平安時代のセックス観。
フロイト「精神分析入門(上・下)」新潮文庫、1999年改版
・・・性衝動(リビドー)と恋の関係。
丸谷才一『恋と日本文学と本居宣長・女の救はれ』講談社文芸文庫、2013年
・・・中国と日本、文学観の違いとその原因。
『批評集成・源氏物語◆第一巻◆近世前期篇』ゆまに書房、1999年
・・・江戸時代の源氏物語研究の古典「紫家七論」を含む。
フロイト『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』光文社古典新訳文庫、2011年
・・・父親殺しの文学。
宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』幻冬舎文庫、2017年
宮台真司『社会という荒野を生きる。』ベスト新書、2018年
・・・感情の劣化とそこからのリハビリテーション(機能回復訓練)。
宇野弘蔵『資本論に学ぶ』ちくま学芸文庫、2015年
・・・人間を実用性の高低で値付けすることへの批判。
『論語』岩波文庫、1999年改版
・・・人間と学問の理想を述べた古代中国の古典中の古典。
以上、計26冊。