恋と学問 第9夜、モノをカタルとカタルシス。
紫文要領の中心に位置する「大意の事」は、モノガタリという言葉についての考察から始まります。以前目次を作った時、「第1章/物語文学とは何か」と名付けた部分です。
(岩波文庫版「紫文要領」29-34頁)
今夜はここを出発点にして、古今東西の知見も参考にしながら「モノガタリとは何か」、ひいては「文学とは何か」といったあたりのことを、宣長と一緒に考えてみましょう。
まず、宣長のモノガタリ観が明らかになる所を引用します。源氏物語の本文中、モノガタリという言葉がどのような意味に用いられているか、じっくりと読み解く中から、宣長は次の意味を導きだしました。
さてその物語といふ物は、いかなる事を書きて、何のためにみる物ぞといふに、世にありとあるよき事あしき事、めづらしき事おもしろきこと、をかしき事あはれなることのさまざまを、しどけなく女もじに書きて、絵をまじへなどして、つれづれのなぐさめによみ、又は心のむすぼほれて、物思はしきのまぎらはしなどにするもの也(29頁)
今の言葉に直します。
では、その物語というものは、どんなことを書いて何のために読むものかと言いますと、世のなかのありとあらゆる良きこと悪いこと、珍しいこと面白いこと、おかしなこと哀れなことのさまざまを、肩肘を張らずにゆったりとひらがなで書いて、そこに絵を添えるなどして、つれづれの慰めに読み、気がふさがって、物思いに沈む心を紛らわすために読むものです。
これを読んだ時、私はすぐに「ははあ、カタルシスと同じ心だな」と連想しました。とは言え、カタルシスもまた、モノのアハレと同じく、知っているつもりで実はよく分かっていない言葉です。改めて意味を調べてみようと思い、この言葉が初めて登場した、古代ギリシアの哲学者アリストテレスの「詩学」をひもときますと、次のようにありました。
悲劇とは、一定の大きさをそなえ完結した高貴な行為、の再現(ミーメーシス)であり、快い効果をあたえる言葉を使用し、しかも作品の部分部分によってそれぞれの媒体を別々に用い、叙述によってではなく、行為する人物たちによっておこなわれ、あわれみとおそれを通じて、そのような感情の浄化(カタルシス)を達成するものである
(アリストテレース・ホラーティウス「詩学・詩論」岩波文庫、1997年、34頁)
なるほど、平安朝物語とギリシア悲劇は、中世日本語と古代ギリシア語、言語体系こそ異なりますが、それが意図する内容(物思はしきのまぎらはしとカタルシス)は非常に近いことが分かりました。しかし、アリストテレスの議論をさらに追ってゆくと、その理解にとどまるべきではないことに気づかされます。
モノのアハレとカタルシスは、明らかに異なる点があるからです。それは「不条理の認否」です。
カタルシスはたしかに、宣長の言う「つれづれの慰め」や「物思はしきのまぎらはし」と似ていますが、感情が≪何によって≫浄化されるかと言うと、合理的に理解される筋(ミュートス)による、とされます。アリストテレスは、神々の理不尽な怒りや仕打ちといった非合理的な要素を、劇中に持ち込んではならないと考えていました。あくまでも悲劇は、物語の筋の範囲内で、論理的に自己完結していなければならない。論理が充分に追える筋によって支えられてこそ、悲劇は読者に共感され、カタルシスが起こるのである、と言うのです。
再現は完結した行為のそれであるばかりでなく、おそれとあわれみを引き起こす出来事の再現であり、このような出来事は、予期に反して、しかも因果関係によって起こる場合もっとも効果をあげる(同46頁)
したがって筋の解釈もまた、筋そのものから生じなければならないことは明らかである。その解決は(中略)機械仕掛けによるものであってはならない。(中略)劇の出来事のなかにはいかなる不合理もあってはならない(同60頁)
アリストテレスのこうした合理主義的な悲劇解釈に、猛然と異議を叩きつけたのが、ニーチェ26才の処女作「悲劇の誕生」(1870)です。
この時、意志のこの最大の危機にのぞんで、これを救い、治癒する魔法使いとして近づくのが芸術である。芸術だけが、生存の恐怖あるいは不条理についてのあの嘔吐の思いを、生きることを可能ならしめる表象に変えることができるのである。その表象とは、恐怖すべきものの芸術的制御としての崇高なものと、不条理なものの嘔吐を芸術的に発散させるものとしての滑稽なものとである
(ニーチェ「悲劇の誕生」岩波文庫、2010年改版、93頁)
ニーチェはギリシア悲劇のなかに、生存の不条理を表現することで、むしろ生存への意志を強固にするという、ギリシア人の逆説的な思考を発見しました。この一見複雑な論理を、かんたんにまとめてしまえば、かつての恐怖の対象も、正体さえ分かってしまえば恐くないが、反対に、恐怖のあまり目を背け続ければ、対象はいつまでも恐いままだ、と言うのです。
ニーチェにとって文学とは、生存の恐怖とその秘密を暴露することで、かえって恐怖を軽減し感情を浄化(カタルシス)する表現のことでした。
文学は存在の秘密を暴露することで経験者にカタルシスを起こす。ニーチェのこの文学観は、じつはカタルという日本語のなかに、すでに内蔵されているものでした。再び、言語学者の大野晋の言葉に耳を傾けてみます。(引用文中、大野は言語学者ですから、数多くの用例を読み解きながら、カタルの意味を確定させていますが、その細かな作業の部分は省略します)
平安時代のカタルは現代語の「話す」に近い。しかし少し違う。『源氏物語』などに見える使い方はおよそ四つに分けられる。
1「内密のこと、秘密を相手に打ち明ける」
2「相手の知らない状態、内情を報せる」
3「事柄の成り行きを、順を追って話す」
4「作為的な言葉を使う」
(大野、前掲書、53-56頁からの抜粋)
第3夜で見たとおり、モノは運命のことでした。カタリは動詞カタルの名詞化したもので、今まさに見たとおり、秘密の暴露のことです。ならば、モノガタリとは「運命の秘密の暴露」にほかなりません。
さて、このあたりで宣長に戻りましょう。宣長にとって、モノガタリ経験とは、つれづれの慰めであり、物思いに沈む気分の解消でした。それは≪何によって≫でしょうか?これまでの議論をふまえて、今こそ、宣長の考える「モノガタリが備えるべき内容」が問われています。
全体は偽りなれども、その中に、げにさもあるべき事と見えて、感ずる所あるもの也。偽りながらも、似つかはしくいひつづけたる所をみれば、又いたづらに心のうごくもの也。「いたづらに」と云ふは、実に今ある事に心をうごかすは、その詮もあればいたづらならず、空言の物語をみて、心をうごかすは詮なくいたづら也
(紫文要領、37-38頁)
今の言葉に直します。
物語は全体として見れば、偽り(フィクション)には違いありませんが、その中に「なるほどアレはこうなる運命であったか」と、感じられる所があるものです。偽りとは言いながら、いかにも人の世の運命に似つかわしい出来事を述べた所を読めば、読者は物語の世界に心をつかまされて、わけもなく心が動くものです。ここで「わけもなく」と言うのは、実在することに心が動くのは根拠があるので納得がいきますが、虚構である物語に心が動くのは根拠がなく、不思議なことだからです。
引用したのは、物語経験の始まりの姿を写し取った文章です。
読者は物語を読んでいる最中、己を完全に忘れています。当然です。登場人物と己を類比させて、そこに共通するモノのアハレを知るなどといったことは、読了直後の感動から距離をおくことができた後にしか有り得ない現象、知的操作だからです。
物語経験は、登場人物の運命の秘密の暴露によって、彼の不条理な生存に、身も心も「つかまされる」経験から始まります。この強烈な経験において、個としての自己は一旦消失します。そのあとに、ゆっくりと、吹けば飛ぶような個としての自己とは異なる、より大きな自己が心の中に芽生えてゆく。
物の哀れを知るとは、そういう経験です。一時的に己を解体することで生じた心の空所に、異なる精神(スピリット)を入れる(イン)こと。異なる運命に霊感(インスピレーション)を持つこと。己の心がそこに帰ってくる時、運命同士が共鳴し、一体となること。その結果、自己の内容が大きく豊かになること。こうした経験の総体を、宣長は「物の哀れを知ること」と呼んでいます。
宣長が経験した源氏物語は、それを読む前の自己と、読んだ後の自己とでは、もはや別人であるかのような衝撃的な作品でした。と言うより、宣長の鋭敏な感受性は、彼にそういう読み方を強いたのでした。そして、このような読み方をしてはじめて、文学は読むに値するし、存在する意味があるのではないか。そのように宣長は考えたのです。逆に言えば、源氏物語はそのような読み方を可能にするほど、豊かな内容を蔵した作品であると言うこともできます。
今夜はこのへんで。
それではまた。おやすみなさい。
【以下、蛇足】
今回は宣長の文学観についてのお話でした。タイトルの「モノをカタルとカタルシス」は、ふざけている感もありますが、筆者としては大真面目なのです。
モノ(運命・不条理)をカタル(暴露する)とカタルシス(芸術特有の感情浄化作用)が生じる。この文学観を初めてはっきりと打ち出したのが、宣長とニーチェである。
だからこのタイトルは、筆者の主張と論述の忠実な反映なのです。他の候補として「物語経験の実相」などが心に浮かびましたが、堅苦しいのでボツにしました。
次回は、光源氏と玉鬘が「真剣な雑談」をくりひろげる「蛍の巻」と、宣長による解釈を読み解きます。お楽しみに。