テクネーの力で対抗してこそエンジニアなのです。
人間が何らかの目的を合理的に達成するための方法論は、勉強すれば世の中にいくらでもあるし、人間の生物としての基本的な性質に立脚すれば、その行動をうまく(自力で、あるいは環境デザインの力によって)コントロールすることはできる。
しかし、それをうまく活かしていくには、その「目的」を最終的にどのように設定するか、が重要になる。
結局、どんなに優れた方法論があったとしても、それを何のために使うか、という目的が無ければ宝の持ち腐れである。
ここでいう「目的」とは、その人間の欲望やモチベーションに依存している。これが、突き詰めたときの「人間らしさ」だと考えても良いかもしれない。
設定される目的の内容は人によって異なるし、その目的のスケール感や欲望の大きさも人によって異なる。
大きな欲望や目標を持つ人間は、それを合理的に達成するための方法をしっかり勉強して、それを上手く使いながら目標に近づいていく方がいいだろう。
一方で、もし欲望が小さく、目立った目標もないならば、別にそんな方法論は(少なくとも現段階では)必要ない。自らの欲望に気づいて必要になったタイミングで学び始めた方が、むしろ学びに対するモチベーションが上がっていいだろう。
しかし問題になるのは、そうしていつか自らの欲望が見つかったときに初めて本気を出すのでは遅い、ということだ。やりたいことが見つかってからそれを達成するための合理的方法論を習得して実践し、そこに到達することを考えると、人生の時間のうちのかなりの時間を使ってしまいそうだ。
そういう観点からも、「とりあえず今のところ何をやるかを決めて、目の前のことに真摯に取り組む」という取り組み姿勢は正当化されそうだ。
ここまで書いてきたことについての私の最大の疑問は、「目的」をどのように設定するかだ。欲望が少ない人間は、いかにそれを設定すればよいのか。
そのような発言をしたら、准教授にこう言われた。
「天性の才能を使って上手にはできないにしても、どうしたらそれが達成できそうなのか、テクネー(古代ギリシャの文脈で言うところの「技術知」)で解決する道を模索するのがエンジニアだ。目的を達成するために合理的な方法論を模索するのは当然だが、それだけでなく、『目的を決める』ということすらもテクネーで解決するのがエンジニアなのではないか?」
なるほど、と唸ってしまった。
具体的にどうすればいいかはまだわかっていないけれど、自分の欲望が少ないことに対する向き合い方として、エンジニアのスタンスを取ることは1つの解決策になり得るのではないか、と思った。