流れをつかむ日本史「鎌倉時代 後編」
トモーロです。
今回は、流れをつかむ日本史鎌倉時代後編を見ていきましょう。
前回は、2度のモンゴル帝国襲来に奇跡的に勝利した日本。
しかし、防衛戦だったため幕府からの恩賞を受けることができず武士や御家人たちの不満が徐々に現れ始めます。
そんな中でこの時代、庶民は現世の苦しみから逃れるため神仏にすがろうとする人が急増しました。
そこで、超キャラが濃い6人の僧侶が誕生しました。
それではいきましょう!
<NEW鎌倉仏教6>
冒頭にも説明しましたが、鎌倉時代には神仏にすがろうとした庶民が増えていきました。
しかし、仏教は貴族の信仰であり庶民に救いの手を差し向ける宗派がありませんでした。
そこで、現れたのが6人の僧侶であった。簡単に言うと、この6人が開いた宗教は修行を必要としないお手軽仏教でした。
まず、「法然(ほうねん)」は「南無阿弥陀仏とひたすら唱えなさい。そうすれば救われますよ!」という浄土宗を開きました。
そして、法然の弟子である「親鸞(しんらん)」は、法然が何回でも唱えるのに対して「南無阿弥陀仏は1回だけでいいですよ!」という浄土真宗を開きました。
1回でいいなんて、めっちゃ楽じゃないですか?超お手軽ですよね!
次に紹介する「一遍(いっぺん)」という男は超驚きです。なんと踊りながら念仏を唱えて、しかも札を配るという超斬新な時宗を開きました。
そして、踊り念仏とは対照的で座禅に注目したのが「栄西(えいさい)」と「道元(どうげん)」であった。
栄西の開いた臨済宗は、座禅を組みながら、「師からの問題を解決すれば救われますよ!」という宗派であった。
道元の開いた曹洞宗は、問題とかは何もなくただひたすら座禅を組むという宗派であった。ホントさまざまな宗教が生まれました。
最後は、「日蓮(にちれん)」の開いた日蓮宗は「南妙法蓮華経と1回唱えればいいですよ。」という宗派でした。
あれ?南無阿弥陀仏と一緒じゃない?と思うかもしれませんがこれに日蓮は「あんなインチキと一緒にするな!!」と言った感じでした。
<何度も立ち上がる後醍醐天皇>
元寇のおいて、御恩と奉公にヒビが入った幕府。このとき、皇室で対立が起き2つの派閥に分裂してしまった。
そこで幕府は、両派から交互に天皇を出すように提案しました。そこで、最初に即位したのが後醍醐(ごたいご)天皇であった。
この後醍醐天皇が幕府を乱していくのです。
後醍醐天皇は、討幕して天皇の親政を行いたいと思っており、幕府を落とすにはどうしたら良いかを密かに企んでいました。
しかし、その陰謀をバレてしまい後醍醐天皇は何も罪は負わなかったが側近が流罪にされてしまいます。
それでも諦めなかった後醍醐天皇。再度討幕の計画を立てるが味方の密告によってついに逮捕されてしまいます。
後醍醐天皇が逮捕されてある間に幕府に反旗をかがけたのが楠木正成(くすのぎまさしげ)であった。
<鎌倉幕府が幕を閉じる>
正成は、大阪を中心に暴れており幕府を悩ませていた。正成には、多額の懸賞金がかけられ、千早城に追い込まれてしまいます。
正成は、追い込まれながらも城の上から巨石や煮え湯、大便、たいまつ、油などを落とし、敵と戦いました。
そうしている間に、後醍醐天皇が脱出。
元寇で御恩と奉公にヒビが入っていることを察していた後醍醐は、各地の武士に挙兵するように呼びかけます。
すると、どんどん武士は後醍醐に挙兵するようになり、いよいよ鎌倉幕府が大ピンチになります。
そこで、トドメをさしたのが足利尊氏(あしかがたかうじ)と新田義貞(にったよしさだ)の寝返りでした。
尊氏は、もともと北条氏とは仲が良かったのだが、後醍醐天皇からの挙兵をうけ、六波羅探題を攻め滅ぼします。
ほぼ同じタイミングで裏切ったのが新田義貞であった。こちらも後醍醐天皇からの挙兵を受けて寝返りました。
当時、大軍を率いていた新田軍は鎌倉に攻め込みます。そして、足利尊氏と新田義貞に攻められた幕府。
最後は鎌倉の町で北条一族870人が集団自殺。ここに、鎌倉幕府150年の歴史が幕を閉じました。
<まとめ>
いかがだったでしょうか。今回は鎌倉幕府が幕を閉じるところまで見ていきました。
一時は、全国政権が成立した鎌倉幕府でしたが最後は裏切りに合い、北条一族の集団自殺。
世は儚いですね。。。
ここから、後醍醐天皇が力を握ると思いきや足利尊氏はそう簡単な男ではありませんでした。
尊氏の力が徐々に表に出て、再び武士の時代に引き戻そうとします。
果たしてどうなっていくのでしょうか?次回もお楽しみに。