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間に合わない から 間に合わない「タッチ」(あだち充) と間に合わない を 間に合わす逆説の夏目漱石:「漱石」が苦手な方へ これだけでわかる「漱石」


1  漱石の理解できない漱石

夏目漱石 
読み進めるの はっきりいって
辛いです
心が折れる💔
「どういう種類の経験をした」ら
ああなるのか
T.S.エリオットが「ハムレット」に
客観的相関物」が欠けていると非難したが
ハムレット
シェイクスピアの理解できない自分
ハムレット=シェイクスピア
「彼の手に余る問題を扱おうとした結果」であり
同時に
彼自身だから客観的相関物 欠けて当たり前
一昨日 パンツ🩲がずれ落ち
昨日 ジーンズ👖がずり落ちて
初めて気づかされた また痩せた自分
エリオットの詩だって
どういう種類の経験をしたらああなるのかって思うよ
           (柄谷行人 「漱石論集成)
でも漱石が言うように

ただ自分らしいものが書きたいだけで…
ただ自分は自分であるという信念を持っている。
手腕が足りなくて自分以下のものができたり、衒気があって自分以上を装うようなものができたりして、読者にすまない結果を齎すのを恐れるだけである…が自分の手際が許すならばこの「彼岸過迄」をかねての思わく通りに作り上げたいと考えている。

夏目漱石 「明治四十五年一月此作を朝日新聞に公けにしたる時の緒言」

だから わたしが
代わりに説明を努めます
ご心配は要りません。
夏目漱石研究家 柄谷行人先生の分析を
ベースにしていますし
はっきり言って 誰が読んでも
こういう結論に到達します。
最期までお読み頂き
漱石 おもろいやん
日本文学すっげー👍
ちょっと 漱石読んでみよう そう思って頂ければ幸い♡
漱石の上記 心意気が反映された
「彼岸過迄」から始めましょう

「今日はあたし御留守居よ」
と云った時、僕は始めて皆出払った事に気がついた

... あたしあなたの描いてくれた画をまだ持っててよ」

夏目漱石「彼岸過迄」

夏目漱石「彼岸過迄」の須永
千代子
「今日 両親が出払ってるの」
と言われても
千代子の乙女心に
気づけない
気づきたくない
額縁の中に閉じ込められた彼女の想いに…

「何に結おうかしら」  
「あなた何が好き」
「旦那様も島田が好きだときっとおっしゃいますよ」  
「じゃ島田に結って見せたげましょうか」

同上

須永という人は
千代子
お嫁に行くとなれば 猛烈に千代子に激情
千代子が
自分に嫁ぐ となると 千代子を煙たがる
僕は
矛盾なのだ」(夏目漱石「行人」)

2  ノミ対策という「偽」「善」

「彼岸過迄」は
後期三部作
「彼岸過迄」
「行人」
「こころ」

最初の作品

漱石の主人公は
前期三部作
「三四郎」
「それから」
「門」
の頃から こうなのだ
成長がない😢💦

逆ナンされた「三四郎」から始まる
前期三部作
逆ナンなんてほんとにあるの?
あるらしい
男らしい肉体?
金持ちオーラ??
でも「据え膳食わぬは…」ではないの?
って聞いても
殿方は女性陣に答えるわけゃない
しかし
三四郎は 逆ナン女に

「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」

夏目漱石「三四郎」

と 逆に 見限られている 🤭

後期三部作の「行人」でも
兄嫁の誘いに対し
「たいていの男は意気地なしね、いざとなると」
倫理
的っちゃ倫理的?(笑)
漱石作品に頻出する魔性の女と女性不信 
これ 漱石作品の「大前提」❣️

さて
「三四郎」
訳あって
その逆ナン女性と宿屋を共にすることとなるが

「婦人は自分の連れではないと断るだけの勇気」
もなく
蒲団を一枚しか持って来ない」下女…
どうするべ?
三四郎は「ノミ対策として」
男と女の間に仕切りを拵えることにする。

「失礼ですが、私は癇症でひとの蒲団に寝るのがいやだから……少し蚤よけの工夫をやるから御免なさい」  三四郎はこんなことを言って、あらかじめ、敷いてある敷布の余っている端を女の寝ている方へ向けてぐるぐる巻きだした。そうして蒲団のまん中に白い長い仕切りをこしらえた。女は向こうへ寝返りを打った。三四郎は西洋手拭を広げて、これを自分の領分に二枚続きに長く敷いて、その上に細長く寝た。その晩は三四郎の手も足もこの幅の狭い西洋手拭の外には一寸も出なかった。女は一言も口をきかなかった。

同上

「ノミ対策」
=「偽」「善」のテーマで一貫する
漱石作品
それは
前期三部作「三四郎」「それから」「門」
後期三部作 「彼岸過迄」「行人」「こころ」

に限ったことではない。

3  世間体=家を出るな=家を出ろ

「漱石の『虞美人草』!」との
駅での新聞売子の掛け声が
朝日新聞の売り上げ部数を増やしたという
朝日新聞の連載小説「虞美人草」
においても

藤尾
①息子=長男を家から追い出したい
そして
娘に全財産を遺りたい
しかし
息子が
①「家を出る
②「全て妹に譲ろう
「やろうと私が云うのに」
「いつまでも私を疑って信用なさらない」

藤尾母からしたら
そんな良い人=兄 いないやろ?
なので
娘に全財産を集中させるため
①息子を家から追い出し
②娘に婿養子をとろうと
不必要」にも
必死に
策略する藤尾母

なーんの
策略

必要なかったのである
他人を信じる真心さえあれば💔

長男は
家を出て行こうとしてたし
全財産 妹に譲ろうとしていた

「あなたは私が家にいるのを面白く思っておいででなかったでしょう。」
「だから私が家を出ると云うのに」…
世間と云うものがあります。」

夏目漱石『虞美人草』

世間体があるから
息子が家を出てはいけない
家を出る息子を母は止めるのだ
どう言うこと?

整理しよう⁉️

息子に
家から出て欲しい
でも
息子が
家を出ていけば
面子が立たない
????????????
から

僕が家を出たあとは、母が僕がわるくって出たように云うから、世間もそう信じるから――僕はそれだけの犠牲をあえてして、母や妹のために計ってやるんだ

同上

面倒臭い
藤尾の母は
その上 さらに
息子が
小野を娘の養子にするのに
「不承知を云うだろうと思って」

私を京都へ遊びにやって、
その留守中に小野と藤尾の関係を一日一日と深くしてしまったのでしょう。
そう云う策略がいけないです。
私を京都へ遊びにやるんでも私の病気を癒すためにやったんだと、私にも人にもおっしゃるでしょう。そう云うが悪いんです。

夏目漱石「虞美人草」

藤尾母の
家を出てくれるな」と云うのは、
出てくれ
財産を取れ」と云うのは
寄こせ
世話をして貰いたい」と云うのは
世話になるのが厭だ」と云う意味

面倒臭い藤尾の母の人格を
息子は毛嫌いしていたのである
つまり
藤尾の母は
自身の落ちぶれた性質を
ただただ
信じてれば良かった
のであり
なんの策略も不要だったのだ 🤣

4  行かなかった=行けなかった

だが
藤尾の母は見抜いていたのだ
婿養子候補 小野の扱いやすい
「弱く」
中心のない」性質を…
事実、
小野は
小夜子から藤尾に乗り換え
小夜子との婚約不履行にしたいが
自分で言えない
ので代理
浅井
小夜子父のところに行かせた

自分が
「行かなかった」のではなく
行けなかった
約束は履行すべきなのに
邪魔が入って妨げられたらしい

履行すべき条件を奪ったものは自分ではない。自分から進んで違約したのと、邪魔が降って来て、守る事が出来なかったのとは心持が違う。約束が剣呑になって来た時、自分に責任がないように、人が履行を妨げてくれるのは嬉しい。なぜ行かないと良心に責められたなら、行くつもりの義務心はあったが、宗近君に邪魔をされたから仕方がないと答える。

同上

自分が
行きたかった のに 
行けなかった
自分が悪いのではなく
邪魔
に入った宗近が悪い

小夜子と結婚したいのに
博士号取得に集中したいから」
小夜子とは結婚できず
藤尾と結婚する(笑) そうで
真実はいつも「真逆
そして
エンディング
小野は
駆け落ちをしようと言った
藤尾が重くなり
小夜子に 乗り換え
藤尾は
虚栄の毒を仰いで斃れた」
ほんに「気の毒」に
としか言いようがない(笑)

5  脱線=非同一性の美学

もう💦
漱石を読んでいると
読み続ける気力が削がれてしまうのだ
上述のとおり個人的に漱石は苦手で
いつも
「タッチ」に行ってしまう
なんで もっとまっすぐ
直球に
上杉達也は浅倉南を愛しています
って
爽やかに生きれないの?
たっちゃんとかっちゃんは
正々堂々と南を競ったじゃない?
って「タッチ」へと観念が連合してしまうのだ

            あだち充「タッチ」26巻
                     同上

藤尾の母、娘=藤尾や小野に
「タッチ」を読めと言いたい❣️
漱石→タッチは
確かに
とんでもない脱線
とんでもない観念連合なのだが
夏目漱石が
吾輩は猫である」から始まったことを
思い起こせば
とんでもなくも
ない。
ローレンス・スターン
「トリストラム・シャンディ
」の日本版とも言える
「猫」から始まった漱石
「月に一度の大時計のねじ巻き→
母親だけを相手のこまごました用事」=セックス
という奇妙な観念連合より
この世に生を受けたスターンに影響を受けて
「吾輩は猫である」が生まれているのだ
漱石作品とは
脱線=非同一性
の美学
なのだ

小夜子 から 藤尾へ
藤尾 から 小夜子へ
と「ふわふわ」と…「分裂」した
非 ジョン・ロック同一
=小野
意識が貫かれる限り一つの同一性=人格と
ロック
は言っているからだ
(要するにヒューム「バラバラ」な感覚の束なのだ)

非ロック的大衆に合わせて
非ロック調 (つまりヒューム調) に
ロックを
逆に説いた
逆説で説くスターン牧師

藤尾のに相当する

逆説を説くには逆説
酒には迎酒
タバコをダメとタバコを吸う
漱石の主人公たち
「家を出るな」は
「家を出ろ」と
その反対を狙う意味する母 の「逆説
にもで返す
覗き見には覗き見
目👀には目👀を

6  2本の指輪=不自然は身代わりを要求する

さて連合は「タッチ」へと飛んだが
元に戻ってきた
でも
忘れてはならない もう一つの
連合
自然は「身代わり」を要求することだ
身代わりに誰かが死ななければならない
             (柄谷行人 漱石論集成)
タイトルは「タッチ
たっちゃんへ
タッチ交代❤️‍🩹
藤尾が死ななければ
小夜子が死んでいたのだろう😢

達也か和也
藤尾か小夜子
同一の空間は二物によって同時に占有せらるる事能わず」(「虞美人草」)
三角関係の「タッチ」に同じく
夏目漱石作品には「底なき三角形」(夏目漱石「人生」明治29年)が通奏低音として存在する。

前期作品から見てみよう

打ち明けて下さらなくっても可いから、何故
何故棄ててしまったんです」…
「残酷だわ」

夏目漱石「それから」

何故って?
結婚していなかった三千代とは
結婚したくなかったからだ。
三角形がないからその気になれなかった。
百合の花をもって自分に会いに来てくれた三千代
真珠の指輪を贈るも
平岡との縁談を纏め
三千夜を棄てた 代助

平岡と結婚した「三千夜」
つまり
平岡と
自分(代助) の
2本の指輪をはめた既婚の三千代
にしか欲望を抱き得ず
突如
自分のものにしたくなり
平岡から奪う

三千代は病気になり
平岡 (=安井 in「」)
病に伏せ
銀行辞職 (「それから」)

」の安井
大学辞めざるを得なくなる

代助」というネーミングも絶妙ではないだろうか?
代助の三千代に対する愛情は
「この夫婦の現在の関係
「平岡」と結婚してしまった三千代
つまり
「平岡」の犠牲という「代理」=身代わり犠牲
を「必須条件」としている

「貴方は派手な半襟を掛けて、銀杏返しに結っていましたね…この間百合の花を持って来て下さった時も、銀杏返しじゃなかったですか」「あら、気が付いて。あれは、あの時ぎりなのよ」「あの時はあんな髷に結いたくなったんですか」「ええ、気迷れに一寸結ってみたかったの」「僕はあの髷を見て、昔を思い出した」「そう」と三千代は耻ずかしそうに肯った。」

夏目漱石「それから」

昔 百合を持ってきてくれた三千代
昔 銀杏返しに結っていた三千代ではダメ❌
平岡に斡旋

2本の指輪をして
銀杏返しに結って
百合を持ってくる三千代
でなければ欲情しなかったという時系列の逆転

❌  恋愛 →  結婚
⭕️      結婚 → 恋愛

さて そんな二者
「それから」の
代助三千
つまり
」=
それから」のそれからの
御米宗助
幸せなのだろうか
彼らの会話を聞いてみよう

今朝始めて鶯の鳴声を聞いた…
「まだ鳴きはじめだから下手だね」
「ええ、まだ充分に舌が回りません」  
「本当にありがたいわね。
 ようやくの事春になって」
「うん、しかしまたじきになるよ」
と答えて、下を向いた

夏目漱石「門」

暗っ🙁
代助=宗助
三千代=御米と一緒になれるや
」を見ている
虞美人草」の小野藤尾との駆け落ち寸前に
駆け落ちに怯え
小夜子鞍替えした

ある が ない から 欲望し = 不倫
ない が ある となったら「が来る」
自然 (ある=ある ない=ない)
の復讐
は「必然
三千代は三度、流産を繰り返し
がまともに育たない

7  欲望の三角形

後期三部作
「彼岸過迄」
のあと
行人」「こころ」
も引き続き ご存知の通り
同テーマでドロドロ

不倫 (浮気)する人
他人を騙す人と一緒になった必然
つまり
行人」の一郎は嫁を信じられないで苦しみ
二郎
自分の嫁を外に連れ出し
嫁の貞操を試せと命ずるし

こころ」の先生の
「お嬢さんに対する恋愛には
この第三者のKが必要」
第三者たる媒介
「Kが存在することによってはじめて
先生曰く 消えかけた
再度火がつき
二者は初めて
恋愛」関係となったそうで
先生はの意識に押し潰され
ご存知の通り自殺する
(柄谷行人「漱石論集成」)

三角である
三角が必要だった
ジラール欲望の三角形❣️
弁証法である!
ヘーゲル
ラカン
欲望は他者の欲望である
誰かが必ず
足蹴=身代わり
橋」=「媒介」にならなければ…
それを描いた
カフカの「橋」

燃え上がるには
嫉妬 には 必ず
第三者
必要なのだ❣️❣️❣️

誰か から奪いたい
誰か のもの
だから
燃える🔥

この矛盾
ひとは「愛=好き」と勘違いするのだ

あなたそれほど高木さんの事が気になるの」  
「あなたは卑怯だ」
「なぜって、あなた自分でよく解ってるじゃありませんか」
「解らないから聞かしておくれ」」
「それが解らなければあなた馬鹿よ」
「あなたはあたしを……愛していないんです。つまりあなたはあたしと結婚なさる気が……
何も貰って下さいとは云やしません。ただなぜ愛してもいず、細君にもしようと思っていないあたしに対して……」  
「御前に対して」
「なぜ嫉妬なさるんです」
「あなたは卑怯です、徳義的に卑怯です。」

夏目漱石「彼岸過迄」

このnote
彼岸過迄」の須永から始めたが
許嫁千代子が必死に想いを伝えても
お嫁に貰ってくれないから
千代子が他の男性 (高木)に行くと
嫉妬に狂い出す
須永は
千代子が
いる 時には 要らない
他者の女=ない時にはいる(要る)
恋が発生

ある時にない

ない時にある
矛盾
反自然

碁を打ち出せば
「碁なんぞ打っていられないという気分に襲われ」けれども「また打たずにはいられなく」なる。
それは
「碁に限った訳じゃない」
「書物を読んでも、理窟を考えても、飯を食っても、散歩をしても、二六時中何をしても、そこに安住する事ができない
「何をしても、こんな事をしてはいられないという気分に追いかけられ」
「落ちついて寝ていられないから起きる」…
起きると、ただ起きていられないから歩く
歩くとただ歩いていられないから走ける
「すでに走け出した以上、どこまで行っても止まれない」…
「止まれないばかりなら好いが刻一刻と速力を増して行かなければならない」…

「自分のしている事が、自分の目的になっていないほど苦しい事はない」…「ただ不安なのです。したがってじっとしていられないのです。」

夏目漱石「行人」

8  アンコンシャス・ヒポクリット(無意識の偽善者)

あるものは要らない
ないものが欲しい

あるない

ないある
漱石の主人公たちは
ある=ある
チェスをチェス


ブランコをブランコ
目的として「自然」を楽しめない
自分のしている事が、自分の目的になっていない
無意識の 迷える羊 stray sheep たち
さて
前期最初の作品
三四郎」に戻ってきた…
「stray sheep 」
美禰子のつぶやき
美禰子のため息
は三四郎との未来に向けられた諦念であった
美禰子は三四郎に
わざわざ
「会って手渡しにしたい」と不必要な用事まで拵え
わざわざ
三四郎に会うため
きれいな服装に着換えたり
お手製の絵はがきまで送っている
それでも
その絵葉書に三四郎は返事も送らず

三四郎はこのあいだから美禰子を疑っている。しかし疑うばかりでいっこうらちがあかない。

夏目漱石「三四郎」

美禰子は誘いをかけてくる魔性
しかし実際
疑われねばならないのは
三四郎 自身の「こころ」こそが「
しかし
彼には
「stray sheep 」とつぶやく
美禰子こそが
魔性の女に疑われ
信じることができない

漱石の全主人公たちは
アンコンシャス・ヒポクリット(無意識の偽善者)
他人のまっすぐな愛や良心 真心が
信じられない ばかりか 
それを
恐れている」がゆえに
他者が
偽善者」に見えるのだ

相続を放棄する
息子なんて不気味
偽善者に決まってる(「虞美人草」)
だから
仮病を使ってお嬢さんとの結婚を
に」「で」手に入れた
こころ」の先生も
病気はもう癒いのか、医者へでも行ったのか
と自分のを真っ向から信じ切って労ってくれる
Kの真心を信じきれなかった
先生はKの
真心故に
真心を騙す必要がなかった
のにも関わらず
先生側の
真心不在がゆえに
Kの
真心が偽善にしか見えなく
Kの
真心を曲解
Kの真心に
真心を更に追及させ
彼を
死に追いやってしまう
ばかりか
彼の遺した遺書の中身まで疑う

手紙に眼を着けました。それは予期通り私の名宛になっていました。私は夢中で封を切りました。しかし中には私の予期したような事は何にも書いてありませんでした。私は私に取ってどんなに辛い文句がその中に書き列ねてあるだろうと予期したのです。そうして、もしそれが奥さんやお嬢さんの眼に触れたら、どんなに軽蔑されるかも知れないという恐怖があったのです。私はちょっと眼を通しただけで、まず助かったと思いました。(固より世間体の上だけで助かったのですが、その世間体がこの場合、私にとっては非常な重大事件に見えたのです。)

夏目漱石「こころ」

9  善は善ではない=「偽善」

反対に
Kは最期まで
先生を守り抜いた😢
自身に誠実に生き抜く「覚悟」が彼にはあった

Kがお嬢さんへの想いを 先生に伝えた
ように
先生にも お嬢さんへの想いをKに話して欲しかった
つまり
Kは 先生に
信じて欲しかった
信じてもらえてると思ってた
先生に「真実を話してもらいたかった」だけで
真実を暴露しようとするような「悪人」ではない
「タッチ」の達也和也みたいに❤️
仲良しと信じていた
Kは
たった一人信ずる先生に
信じてもらえなかったこと💔
たった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうか」

必要な事はみんな一口ずつ書いてある中にお嬢さんの名前だけはどこにも見えません。私はしまいまで読んで、すぐ Kがわざと回避したのだという事に気が付きました。

同上

しかし
新聞には
Kが
医学ではなく哲学を志し
「父兄から勘当」された結果
「Kが気が狂って」
自殺した
と書かれ
世間体を喪失したのは
先生の秘密を守り抜いたK  (「こころ」)
大学を去った安井 (「」)
銀行を辞職した平岡 (「それから」)
病気だと世間に吹聴された藤尾 (「虞美人草」)


」となった「媒介者」たち
身代わりカフカの「」は最期に落ちる
善は善ではない=偽善

藤尾と 藤尾と その母 =「虞美人草
小野 と 小夜子と 藤尾=「虞美人草
須永 に 千代子 そして 高木=「彼岸過迄
代助 に 三千代 に 平岡=「それから
御米 と 宗助 と 安井=「
一郎 二郎 と 直=「行人
先生 K  と お嬢さん=「こころ

10  やらない=やった?→妻を信じる為俺の妻を押し倒してくれ

つまり
前期〜後期三部作etcの「三角関係」に於いて
藤尾兄を
小夜子とその父を
平岡=安井や
二郎
K
をも
素直
信じていれば…
悲劇も
漱石作品も生まれなかった🤣
漱石の悲劇が
まさに悲劇であり
また喜劇たるのは
この「逆転」ゆえ
アリストテレスが「詩学」で言った通り
真実から遠く離れるがゆえ
ひとは
「笑い」「泣き」
「ちゃうねんよぉ〜」と
テレビ📺の前で叫び
悲劇や喜劇に
カタルシス=浄化、排出
を得る

一郎は「行人」で
俺の妻の「節操を試せ
「直は御前に惚れてるんじゃないか
疑いを晴らすために
俺の妻を押し倒してみてくれ
妻の操を信じたい
「御前と直が
二人で和歌山へ行って一晩泊ってくれれば好い」

絶対」=「信じる」境地に
兄 一郎が到達するため
弟である二郎に頼む
信じられるのは同じ血を引くお前だけだ
媒介=橋の役割を渋々、承諾する二郎

ああおれはどうしても信じられない。どうしても信じられない。ただ考えて、考えて、考えるだけだ…どうかおれを信じられるようにしてくれ

夏目漱石『行人』

ところがである
ところが
直と二郎が旅から家に戻ると
一郎は二郎に
やったやろ?」
「二郎 お前は信じられない奴だ」
「軽薄だ
」と
弟をなじる一郎
いや
信じてる って言ったやん
あんたは「矛盾」だと一郎に反撃する二郎

それでも 
一郎は
弟と嫁が「やった」と思い込んで
ダンテの「神曲」に出てくる
夫の弟と恋に落ち、夫に殺され地獄堕ちした
パオロとフランチェスカを引き合いに
二郎を「勝利者」呼ばわり

一郎にイライラする二郎
ええ加減にせえと
家を出ることにする
兄に信じてもらえなかったこと
得体の知れない兄嫁の正体
たいていの男は意気地なしね、いざとなると
和歌山の宿
蚊帳の中でそう言った兄嫁 (前述の通り)
他者の他者性に恐ろしい心持がしたことも事実だ

11  家族=ある=ある=自然

でも
二郎が兄を裏切るわけなんてないのだ
家族なんだから
何もなかった から なかった
ない は ない
でも
一郎心中では
ない は ある
やらない=やった

にしか思えない

虞美人草」藤尾兄の「譲ろう」は「譲ろう
彼らの
ある は ある
ない は ない
自然に忠実真心で生きる人たちだからだ

しかし
反自然の人には
誠実な人をも
真心も
逆説的=反対に見えてくる
「やってない」のに「やった
従って
「博士号取得」のため
などという
「偽善」の必要に思われ(「虞美人草」)
こころ」の先生もKのをかく
このように
不自然=「目的」を伴う偽善の言説
常に
逆説のかたち をとる
「家を出ろ」は
「家を出てくれるな」=
反対」のことを言わねばならない
自らが
あるがない
ないがある

だから
他者も
あるはない
ないはある

を言っていると思い
即ち
反対を言わねばならぬと思うのだ
バカだ💔

12  真実の遅延=自然の制裁

私は死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。

夏目漱石「こころ」

信じ切っていた親族に裏切られた先生
自身も
自身が最も蔑む人間と同等になったことに
苦しみ わたしにこのような遺書を遺し
自殺する

たった一人で好いから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。

夏目漱石「こころ」

Kの歩いた路を、 Kと同じように辿っているのだという予覚

夏目漱石「こころ」

先生はやっと「遅れて」気づいた
Kが先生に騙されて
どんなに哀しかったか
なぜ もっと早く 真実を言わなかったのか
Kは
先生が女を奪ったから自殺したのではない
「先生がKに
ある時期に告白しておけば、さしたる問題は生じなかった
取り返しが付かない問題は 告白の「遅延
真実=自然 は必ず 「遅れて」復讐する
フラッシュバックというのを皆さんもご存知だろう
海外で舞台化される程
海外で人気の漱石の「夢十夜」の第三夜に
盲目の子を背負って歩いていて
突如
100年前にお前は俺を殺したな
と言われた途端、
背中の子供が重くなるのに同じで
真実
間に合わなかった」分を
間に合わす」ために
必ず遅れて帳尻合わせをする
Kの喪失 に 対する 先生の喪失 (「こころ」)
のように
遅れて」
埋め合わせるのだ
平岡 (安井) の喪失は
「それから」
それから=「」で 子どもの喪失として補填される

ある=ある
ない=ない
が「自然」だからだ
自然の制裁は恐ろしい
フラッシュバックは
罪は
自然は
自身を助けようと
マゾヒスティック
徹底的に自身を追い続ける

こころ」の先生の最期
自身の罪が自身を鞭打ち
心の「牢屋」で
生きながら死に
あまりに苦しくて
安楽生きた心地を求め
を選ぶ
少し長いが
これを説明している
こころ」(五十五)の遺書の末尾を引用しよう

五十五
死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺戟で躍り上がりました。しかし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力がどこからか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私にお前は何をする資格もない男だと抑え付けるようにいって聞かせます。すると私はその一言で直ぐたりと萎れてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられます。私は歯を食いしばって、何で他の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷やかな声で笑います。自分でよく知っているくせにといいます。私はまたぐたりとなります。  波瀾も曲折もない単調な生活を続けて来た私の内面には、常にこうした苦しい戦争があったものと思って下さい。妻が見て歯痒がる前に、私自身が何層倍歯痒い思いを重ねて来たか知れないくらいです。私がこの牢屋の中に凝としている事がどうしてもできなくなった時、またその牢屋をどうしても突き破る事ができなくなった時、必竟私にとって一番楽な努力で遂行できるものは自殺より外にないと私は感ずるようになったのです。あなたはなぜといって眼をみはるかも知れませんが、いつも私の心を握り締めに来るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食い留めながら、死の道だけを自由に私のために開けておくのです。動かずにいればともかくも、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まなければ私には進みようがなくなったのです…記憶して下さい。私はこんな風にして生きて来たのです。

夏目漱石「こころ」

13 羊には羊

ね?
夏目漱石 読み進めるの辛いでしょう?
だから 代わりに説明を努めたのです

三四郎」の
美禰子同様 
迷える羊🐏には 迷える羊🐏🐏
逆に返すしか
通じない

机の上に絵はがきがある。小川をかいて、草をもじゃもじゃはやして、その縁に羊を二匹寝かして、その向こう側に大きな男がステッキを持って立っているところを写したものである。男の顔がはなはだ獰猛にできている。まったく西洋の絵にある悪魔を模したもので、念のため、わきにちゃんとデビルと仮名が振ってある。表は三四郎の宛名の下に、迷える子と小さく書いたばかりである。三四郎は迷える子の何者かをすぐ悟った。のみならず、はがきの裏に、迷える子を二匹書いて、その一匹をあんに自分に見立ててくれたのをはなはだうれしく思った。迷える子のなかには、美禰子のみではない、自分ももとよりはいっていたのである。それが美禰子のおもわくであったとみえる。美禰子の使った stray sheepの意味がこれでようやくはっきりした。

夏目漱石「三四郎」

つまり
美禰子は諦め
自らも迷える羊🐏となったのだ
三四郎との初めての出会い
の「思い出」の自分を
自画像として描かせ
第二の美禰子」を
永遠に
一枚の絵に封じ込め
葬り去るしかなかった

あの服装でわかるでしょう」  
三四郎は突然として、はじめて池の周囲で美禰子に会った暑い昔を思い出した。
「そら、あなた、椎の木の下にしゃがんでいらしったじゃありませんか」
「あなたは団扇をかざして、高い所に立っていた」「あの絵のとおりでしょう」
「ええ。あのとおりです」」
美禰子が団扇をかざしている構図は非常な感動を三四郎に与えた。不思議の因縁が二人の間に存在しているのではないかと思うほどであった。

夏目漱石「三四郎」

「因縁」じゃないねん❗️
美禰子は
わざわざ
あの出会いの時と同じ服装 同じ構図
当人の希望」として
画家に「わざわざ」描かせ
美禰子の三四郎への愛を 
額縁の中に
「森の女」として 閉じ込めた
のだ
美禰子はこうして
第一の美禰子
第二の美禰子=油絵「森の女」
二つの世界の矛盾人工的に
解決するために
他の男性のところに嫁いで行った
しかし
迷える羊がもう迷わないためにしたことが
夏目漱石作品のスタートとなる
それが「三四郎
勿論
その後日談は
「それから」「門」
「彼岸過迄」「行人」「こころ」

轢死のシーンで始まるトルストイアンナ・カレーニナ」の日本版にも思える
三四郎
自己の葬り去り方
トルストイと
漱石
全く違う
森鴎外がこう言った通りだと確かに私は思う

日本人は色々な主義、色々なイズムを輸入して来て、それを弄んで目をしばだたいてゐる。何もかも日本人の手に入っては小さいおもちやになる 

森鴎外『青年』

が 美しい🤩
「三四郎」は
日本の美🇯🇵とでも言おうか
「アンナ・カレーニナ」より見事だと思うのは
私だけであろうか
そして
ローレンス・スターン
観念連合
不自然不自然に叙述し不自然批判した
そのテクニックもコミカルなのだが
スターンの影響を受けたという漱石の
ある=ない
不自然
の物語も
「すごい」
バッラバラ の 非同一に次ぐ非同一
柄谷行人氏が
「漱石がもっと長生きしてたら
吾輩は猫である」に戻ったであろう」
と言ってるが (「漱石論集成」)
私もその通りだと思う
バッラバラな「猫」の続き
読みたかった
漱石の遺作となる未完成の「明暗」も
元々 結構「多声的」で「非同一」だったから
漱石でない非同一の他者
「続明暗」(水村美苗)
を書いても普通に
「自然」に感じた🤭 (矛盾だぁ❤️‍🩹)
から
新「猫」はきっと
神話」的「坊っちゃん」なんかより
もっと有名になったであろう
でも
漱石はいない
間に合わない は 間に合わない
我々は
「赤シャツ」「野だいこ」「うらなり」「山嵐」として「分裂を余儀なくされて生きるほかない」
(夏目漱石「坊っちゃん」in柄谷行人「漱石論集成」)

14 母が母でないという不自然

届かなかった
漱石の
お母さんのお守りは届かなかったのだ

             あだち充「タッチ」7巻
                      同上

ある は ある
ない は ない
自然」体で
スッキリな「タッチ」と
間に合わない」を「間に合わせる不自然
逆説の漱石
どちらが皆様のお好みであろうか

違いはどこにあるのか

ハムレット」のお母さんへの猜疑
彼岸過迄」の息子の母への猜疑
藤尾母より息子への猜疑 (「虞美人草」)
こころ」の叔父への猜疑
一郎への二郎への猜疑 (「行人」)
VS
タッチ」のお母さんの「
信ずるべき人を
信じられる人を
信じられなくなった時
全ては「逆説」となるのだ
アリストテレス
オィディプス」と母の近親姦の悲劇が
再認による逆転を生む悲劇の最高峰
と指摘した通りだ
ハムレットは信じていたハムレットではなく
オィディプスも信じていた自分でもない
母が信じていた母 ではないから
みんな真実からズレていく
シェイクスピア=ハムレット
夏目漱石=先生 二郎 代助

という
ノットイコールという不自然
ある=ない

つまり
物語」=「虚構」が存在し
エリオットのいう客観的相関物を喪失するのだ
自身になかなか到達できない
間に合わない」を
間に合わせる
それが漱石作品

15  間に合わないに遊ぶ客観性

その「ずれ」を「ずれ」として
認められず
非同一相対絶対を行動で模索しようとした三島由紀夫
妄想に生を与える川端康成
処女性少年愛追求はまさしくその「足掻き」
そして
「道化」となるほかなかった芥川龍之介
かのように」距離を置いて遊び「情がない」と非難される森鴎外
を「格好いい」という
現代作家 平野啓一郎さんは
実際にお会いして確信したが
客観性の美学
1語1語 語彙を丁寧に選び
間に合わせようと焦ることもなく
穏やかに
「間に合わない」をありのまま
客観的に詳らかにする
この度 映画公開(11/8) される平野作品「本心」は
夏目漱石の「こころ」から来ている。

日本文学 すごいのだ😍👍
ハン・ガンさんが今回ノーベル文学賞をとったが
日本人の次なる受賞を楽しみにしている

現在 並行して
平野啓一郎の「分人論」の行方としての
「分」「身」論研究のため川端康成を再読中

またお立ち寄り下さいませ❤️

スターンに関しても
note旧稿をお読み頂ければ幸い💚
A  →  B  だから
B   →  A    ?
恋愛 →  結婚
結婚 →  恋愛 ? 
は同じ愛?
歪んだ観念連合は
この恋愛=Aが真実だと思い込ませてしまう
詩学」第24章 (アリストテレス)
ホメロスの得意技
誤謬観念連合が生む激情
悲劇と喜劇

ソクラテス=プラトンは
真実でもないことのために
仲間となり友となるもの」を
不健全
悲劇や喜劇を
真実=イデア(理想)から離れる
国家」第10巻(603A-B)
で批判しているが

アリストテレス
笑い 泣くことで
逆に
認知力は促進
あざむきが滑稽さを生み
真実から遠く離れたものと同化された対象への
共感を呼ぶと「詩学」で悲劇や喜劇を肯定している

人間の真実こそが 虚構(イデア)
イデアによるプラトニズム反転しているのだ
ニーチェ

天=  真実=イデア =虚構
地=   虚構    =真実=イデア

16 学校で学んだ漱石:客観的相関物なんてない!


だから
漱石は「私の個人主義」で

試験にはウォーズウォースは何年に生れて何年に死んだとか、シェクスピヤのフォリオは幾通りあるかとか、あるいはスコットの書いた作物を年代順に並べてみろとかいう問題ばかり出たのです。年の若いあなた方にもほぼ想像ができるでしょう、はたしてこれが英文学かどうだかという事が。

夏目漱石「私の個人主義」

学校で学んだ「坊っちゃん」覚えていますか
      「こころ」感動しましたか
試験には下線部が引かれ
夏目漱石は何を意図していたのかなんて聞かれる。
上記引用を再読ください。
漱石 なんて言ってますか? 
客観的相関物なんてどうでもいいのです。
漱石にすら漱石が分かっていないのですから。
漱石の理解できない自分=「こころ」です。
つまり漱石にだって正解は分からないのです。
それを我々 
漱石でない人から漱石を学んでいたのです。
漱石を読まずに他人のノート借りて 笑笑

川端康成も同じ
「16歳の日記」など
大半は「授業時間中に書かれて」る
図画授業中、英作文授業中
などというのもあるが、
国語授業中というのが多いようである」
とは本人筆。

中学生の私はたいていの授業時間中に教師の目を盗んで文学書を読んで…なにを質問されても手を挙げずに、ずんずん先きを作っていた

川端康成「少年」

漱石は
大学の講義でさえ聞いていなかったんですって
学習院大学に講演に招かれ、講演開始早々

先生の講義などはほとんど聴いた事がない…上部だけは温順らしく見えながら、けっして講義などに耳を傾ける性質ではありませんでした。始終怠けてのらくらしていました。

夏目漱石「私の個人主義」

こんなん 講演でいうことちゃうやろ🤣👏👏
実は彼 大学で教鞭をとったこともあったそうで
超面白くなかったそう
その発端が上記 学習院大学
講師として就職が決まりかけていて

まだ事のきまらない先に、モーニングを誂らえてしまったのです…さていよいよモーニングが出来上ってみると、あに計らんやせっかく頼みにしていた学習院の方は落第と事がきまったのです。

同上

そして仕事を失ったから
モーニングを持って

一年の後私はとうとう田舎の中学へ赴任しました。それは伊予の松山にある中学校です。あなたがたは松山の中学と聞いてお笑いになるが、おおかた私の書いた「坊ちゃん」でもご覧になったのでしょう。

同上

坊っちゃん」誕生
日本の漱石 不真面目でよかったですね























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