間に合わない から 間に合わない「タッチ」(あだち充) と間に合わない を 間に合わす逆説の夏目漱石:「漱石」が苦手な方へ これだけでわかる「漱石」
1 漱石の理解できない漱石
夏目漱石
読み進めるの はっきりいって
辛いです
心が折れる💔
「どういう種類の経験をした」ら
ああなるのか
T.S.エリオットが「ハムレット」に
「客観的相関物」が欠けていると非難したが
ハムレットは
シェイクスピアの理解できない自分
ハムレット=シェイクスピア
「彼の手に余る問題を扱おうとした結果」であり
同時に
彼自身だから客観的相関物 欠けて当たり前
一昨日 パンツ🩲がずれ落ち
昨日 ジーンズ👖がずり落ちて
初めて気づかされた また痩せた自分
エリオットの詩だって
どういう種類の経験をしたらああなるのかって思うよ
(柄谷行人 「漱石論集成)
でも漱石が言うように
だから わたしが
代わりに説明を努めます
ご心配は要りません。
夏目漱石研究家 柄谷行人先生の分析を
ベースにしていますし
はっきり言って 誰が読んでも
こういう結論に到達します。
最期までお読み頂き
漱石 おもろいやん
日本文学すっげー👍
ちょっと 漱石読んでみよう そう思って頂ければ幸い♡
漱石の上記 心意気が反映された
「彼岸過迄」から始めましょう
夏目漱石「彼岸過迄」の須永は
千代子に
「今日 両親が出払ってるの」
と言われても
千代子の乙女心に
気づけない
気づきたくない
額縁の中に閉じ込められた彼女の想いに…
須永という人は
千代子が
お嫁に行くとなれば 猛烈に千代子に激情し
千代子が
自分に嫁ぐ となると 千代子を煙たがる
僕は
「矛盾なのだ」(夏目漱石「行人」)
2 ノミ対策という「偽」「善」
「彼岸過迄」は
後期三部作
「彼岸過迄」
「行人」
「こころ」の
最初の作品
漱石の主人公は
前期三部作
「三四郎」
「それから」
「門」の頃から こうなのだ
成長がない😢💦
逆ナンされた「三四郎」から始まる
前期三部作
逆ナンなんてほんとにあるの?
あるらしい
男らしい肉体?
金持ちオーラ??
でも「据え膳食わぬは…」ではないの?
って聞いても
殿方は女性陣に答えるわけゃない
しかし
三四郎は 逆ナン女に
と 逆に 見限られている 🤭
後期三部作の「行人」でも
兄嫁の誘いに対し
「たいていの男は意気地なしね、いざとなると」
倫理的っちゃ倫理的?(笑)
漱石作品に頻出する魔性の女と女性不信
これ 漱石作品の「大前提」❣️
さて
「三四郎」
訳あって
その逆ナン女性と宿屋を共にすることとなるが
「婦人は自分の連れではないと断るだけの勇気」
もなく
「蒲団を一枚しか持って来ない」下女…
どうするべ?
三四郎は「ノミ対策として」
男と女の間に仕切りを拵えることにする。
「ノミ対策」
=「偽」「善」のテーマで一貫する
漱石作品
それは
前期三部作「三四郎」「それから」「門」
後期三部作 「彼岸過迄」「行人」「こころ」
に限ったことではない。
3 世間体=家を出るな=家を出ろ
「漱石の『虞美人草』!」との
駅での新聞売子の掛け声が
朝日新聞の売り上げ部数を増やしたという
朝日新聞の連載小説「虞美人草」
においても
藤尾の母は
①息子=長男を家から追い出したい
そして
②娘に全財産を遺りたい
しかし
息子が
①「家を出る」
②「全て妹に譲ろう」
「やろうと私が云うのに」
「いつまでも私を疑って信用なさらない」
藤尾母からしたら
「そんな良い人=兄 いないやろ?」
なので
娘に全財産を集中させるため
①息子を家から追い出し
②娘に婿養子をとろうと
「不必要」にも
必死に
策略する藤尾母
なーんの
策略も
嘘も
必要なかったのである
他人を信じる真心さえあれば💔
真に
長男は
家を出て行こうとしてたし
全財産 妹に譲ろうとしていた
世間体があるから
息子が家を出てはいけないと
家を出る息子を母は止めるのだ
どう言うこと?
整理しよう⁉️
息子に
家から出て欲しい
でも
息子が
家を出ていけば
面子が立たない
????????????
から
面倒臭い
藤尾の母は
その上 さらに
息子が
小野を娘の養子にするのに
「不承知を云うだろうと思って」
藤尾母の
「家を出てくれるな」と云うのは、
「出てくれ」
「財産を取れ」と云うのは
「寄こせ」
「世話をして貰いたい」と云うのは
「世話になるのが厭だ」と云う意味
面倒臭い藤尾の母の人格を
息子は毛嫌いしていたのである
つまり
藤尾の母は
自身の落ちぶれた性質を
ただただ
信じてれば良かったのであり
なんの策略も不要だったのだ 🤣
4 行かなかった=行けなかった
だが
藤尾の母は見抜いていたのだ
婿養子候補 小野の扱いやすい
「弱く」
「中心のない」性質を…
事実、
小野は
小夜子から藤尾に乗り換え
小夜子との婚約不履行にしたいが
自分で言えない
ので代理に
浅井を
小夜子父のところに行かせた
自分が
「行かなかった」のではなく
「行けなかった」
約束は履行すべきなのに
邪魔が入って妨げられたらしい
自分が
行きたかった のに
行けなかった
自分が悪いのではなく
邪魔に入った宗近が悪い
小夜子と結婚したいのに
「博士号取得に集中したいから」
小夜子とは結婚できず
藤尾と結婚する(笑) そうで
真実はいつも「真逆」
そして
エンディング
小野は
駆け落ちをしようと言った
藤尾が重くなり
小夜子に 乗り換え
藤尾は
「虚栄の毒を仰いで斃れた」
ほんに「気の毒」に
としか言いようがない(笑)
5 脱線=非同一性の美学
もう💦
漱石を読んでいると
読み続ける気力が削がれてしまうのだ
上述のとおり個人的に漱石は苦手で
いつも
「タッチ」に行ってしまう
なんで もっとまっすぐ
直球に
「上杉達也は浅倉南を愛しています」
って
爽やかに生きれないの?
たっちゃんとかっちゃんは
正々堂々と南を競ったじゃない?
って「タッチ」へと観念が連合してしまうのだ
藤尾の母、娘=藤尾や小野に
「タッチ」を読めと言いたい❣️
漱石→タッチは
確かに
とんでもない脱線
とんでもない観念連合なのだが
夏目漱石が
「吾輩は猫である」から始まったことを
思い起こせば
とんでもなくも
ない。
ローレンス・スターン
「トリストラム・シャンディ」の日本版とも言える
「猫」から始まった漱石
「月に一度の大時計のねじ巻き→
母親だけを相手のこまごました用事」=セックス
という奇妙な観念連合より
この世に生を受けたスターンに影響を受けて
「吾輩は猫である」が生まれているのだ
漱石作品とは
脱線=非同一性の美学
なのだ
小夜子 から 藤尾へ
藤尾 から 小夜子へ
と「ふわふわ」と…「分裂」した
非 ジョン・ロック的同一性
=小野
意識が貫かれる限り一つの同一性=人格と
ロックは言っているからだ
(要するにヒューム的「バラバラ」な感覚の束なのだ)
非ロック的大衆に合わせて
非ロック調 (つまりヒューム調) に
ロックを逆に説いた
逆説で説くスターン牧師
が
藤尾の兄に相当する
逆説を説くには逆説
酒には迎酒
タバコをダメとタバコを吸う
漱石の主人公たち
「家を出るな」は
「家を出ろ」と
その反対を狙う意味する母 の「逆説」
にも鏡で返す
覗き見には覗き見
目👀には目👀を
6 2本の指輪=不自然は身代わりを要求する
さて連合は「タッチ」へと飛んだが
元に戻ってきた
でも
忘れてはならない もう一つの
連合点
自然は「身代わり」を要求することだ
「身代わりに誰かが死ななければならない」
(柄谷行人 漱石論集成)
タイトルは「タッチ」
たっちゃんへ
タッチ交代❤️🩹
藤尾が死ななければ
小夜子が死んでいたのだろう😢
達也か和也
藤尾か小夜子
「同一の空間は二物によって同時に占有せらるる事能わず」(「虞美人草」)
三角関係の「タッチ」に同じく
夏目漱石作品には「底なき三角形」(夏目漱石「人生」明治29年)が通奏低音として存在する。
前期作品から見てみよう
何故って?
結婚していなかった三千代とは
結婚したくなかったからだ。
三角形がないからその気になれなかった。
百合の花をもって自分に会いに来てくれた三千代に
真珠の指輪を贈るも
平岡との縁談を纏め
三千夜を棄てた 代助
は
平岡と結婚した「三千夜」
つまり
平岡と
自分(代助) の
2本の指輪をはめた既婚の三千代
にしか欲望を抱き得ず
突如
自分のものにしたくなり
平岡から奪う
三千代は病気になり
平岡 (=安井 in「門」)
も病に伏せ
銀行を辞職 (「それから」)
→
「門」の安井も
大学を辞めざるを得なくなる
「代助」というネーミングも絶妙ではないだろうか?
代助の三千代に対する愛情は
「この夫婦の現在の関係」
「平岡」と結婚してしまった三千代
つまり
「平岡」の犠牲という「代理」=身代わりの犠牲
を「必須条件」としている
昔 百合を持ってきてくれた三千代
昔 銀杏返しに結っていた三千代ではダメ❌
平岡に斡旋
2本の指輪をして
銀杏返しに結って
百合を持ってくる三千代
でなければ欲情しなかったという時系列の逆転
❌ 恋愛 → 結婚
⭕️ 結婚 → 恋愛
さて そんな二者
「それから」の
代助と三千代
つまり
「門」=
「それから」のそれからの
御米と宗助は
幸せなのだろうか
彼らの会話を聞いてみよう
暗っ🙁
代助=宗助は
三千代=御米と一緒になれるや
「冬」を見ている
「虞美人草」の小野が藤尾との駆け落ち寸前に
駆け落ちに怯え
小夜子に鞍替えした
ある が ない から 欲望し = 不倫
ない が ある となったら「冬が来る」
自然 (ある=ある ない=ない)
の復讐は「必然」
三千代は三度、流産を繰り返し
子がまともに育たない
7 欲望の三角形
後期三部作
「彼岸過迄」のあと
「行人」「こころ」
も引き続き ご存知の通り
同テーマでドロドロ
不倫 (浮気)する人
他人を騙す人と一緒になった必然
つまり
「行人」の一郎は嫁を信じられないで苦しみ
二郎に
自分の嫁を外に連れ出し
嫁の貞操を試せと命ずるし
「こころ」の先生の
「お嬢さんに対する恋愛には
この第三者のKが必要」
第三者たる媒介
「Kが存在することによってはじめて」
先生曰く 消えかけた香に
再度火がつき
二者は初めて
「恋愛」関係となったそうで
先生は罪の意識に押し潰され
ご存知の通り自殺する
(柄谷行人「漱石論集成」)
三角である
三角が必要だった
ジラールの欲望の三角形❣️
弁証法である!
ヘーゲルに
ラカン
欲望は他者の欲望である
誰かが必ず
足蹴=身代わりの
「橋」=「媒介」にならなければ…
それを描いた
カフカの「橋」
燃え上がるには
嫉妬 には 必ず
第三者が
必要なのだ❣️❣️❣️
誰か から奪いたい
誰か のもの
だから
燃える🔥
この矛盾を
ひとは「愛=好き」と勘違いするのだ
このnote
「彼岸過迄」の須永から始めたが
許嫁の千代子が必死に想いを伝えても
お嫁に貰ってくれないから
千代子が他の男性 (高木)に行くと
嫉妬に狂い出す
須永は
千代子が
いる 時には 要らない
他者の女=ない時にはいる(要る)
恋が発生
ある時にない
で
ない時にある
矛盾
反自然
8 アンコンシャス・ヒポクリット(無意識の偽善者)
あるものは要らない
ないものが欲しい
あるがない
で
ないがある
漱石の主人公たちは
ある=ある
チェスをチェスの
碁を碁
ブランコをブランコの
目的として「自然」を楽しめない
「自分のしている事が、自分の目的になっていない」
無意識の 迷える羊 stray sheep たち
さて
前期最初の作品
「三四郎」に戻ってきた…
「stray sheep 」
美禰子のつぶやき
美禰子のため息
は三四郎との未来に向けられた諦念であった
美禰子は三四郎に
わざわざ
「会って手渡しにしたい」と不必要な用事まで拵え
わざわざ
三四郎に会うため
きれいな服装に着換えたり
お手製の絵はがきまで送っている
それでも
その絵葉書に三四郎は返事も送らず
美禰子は誘いをかけてくる魔性
しかし実際
疑われねばならないのは
三四郎 自身の「こころ」こそが「魔」
しかし
彼には
「stray sheep 」とつぶやく
美禰子こそが
魔性の女に疑われ
信じることができない
漱石の全主人公たちは
アンコンシャス・ヒポクリット(無意識の偽善者)
他人のまっすぐな愛や良心 真心が
信じられない ばかりか
それを
「恐れている」がゆえに
他者が
「偽善者」に見えるのだ
相続を放棄する
息子なんて不気味
偽善者に決まってる(「虞美人草」)
だから
仮病を使ってお嬢さんとの結婚を
「先に」「裏で」手に入れた
「こころ」の先生も
「病気はもう癒いのか、医者へでも行ったのか」
と自分の嘘を真っ向から信じ切って労ってくれる
Kの真心を信じきれなかった
先生はKの
真心故に
真心を騙す必要がなかったのにも関わらず
先生側の
真心不在がゆえに
Kの
真心が偽善にしか見えなくて
Kの
真心を曲解し
Kの真心に
真心を更に追及させ
彼を
死に追いやってしまう
ばかりか
彼の遺した遺書の中身まで疑う
9 善は善ではない=「偽善」
反対に
Kは最期まで
先生を守り抜いた😢
自身に誠実に生き抜く「覚悟」が彼にはあった
Kがお嬢さんへの想いを 先生に伝えた
ように
先生にも お嬢さんへの想いをKに話して欲しかった
つまり
Kは 先生に
信じて欲しかった
信じてもらえてると思ってた
先生に「真実を話してもらいたかった」だけで
真実を暴露しようとするような「悪人」ではない
「タッチ」の達也と和也みたいに❤️
仲良しと信じていた
Kは
たった一人信ずる先生に
信じてもらえなかったこと💔
「たった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうか」
しかし
新聞には
Kが
医学ではなく哲学を志し
「父兄から勘当」された結果
「Kが気が狂って」
自殺した
と書かれ
世間体を喪失したのは
先生の秘密を守り抜いたK (「こころ」)
大学を去った安井 (「門」)
銀行を辞職した平岡 (「それから」)
病気だと世間に吹聴された藤尾兄 (「虞美人草」)
皆
「橋」となった「媒介者」たち
身代わりのカフカの「橋」は最期に落ちる
善は善ではない=偽善
藤尾と 藤尾兄と その母 =「虞美人草」
小野 と 小夜子と 藤尾=「虞美人草」
須永 に 千代子 そして 高木=「彼岸過迄」
代助 に 三千代 に 平岡=「それから」
御米 と 宗助 と 安井=「門」
一郎 二郎 と 直=「行人」
先生 K と お嬢さん=「こころ」
10 やらない=やった?→妻を信じる為俺の妻を押し倒してくれ
つまり
前期〜後期三部作etcの「三角関係」に於いて
藤尾兄を
小夜子とその父を
平岡=安井や
二郎
K
をも
素直に
信じていれば…
悲劇も
漱石作品も生まれなかった🤣
漱石の悲劇が
まさに悲劇であり
また喜劇たるのは
この「逆転」ゆえ
アリストテレスが「詩学」で言った通り
真実から遠く離れるがゆえ
ひとは
「笑い」「泣き」
「ちゃうねんよぉ〜」と
テレビ📺の前で叫び
悲劇や喜劇に
カタルシス=浄化、排出を得る
一郎は「行人」で
俺の妻の「節操を試せ」
「直は御前に惚れてるんじゃないか」
疑いを晴らすために
俺の妻を押し倒してみてくれ
妻の操を信じたい
「御前と直が
二人で和歌山へ行って一晩泊ってくれれば好い」
「絶対」=「信じる」境地に
兄 一郎が到達するため
弟である二郎に頼む
信じられるのは同じ血を引くお前だけだ
媒介=橋の役割を渋々、承諾する二郎
ところがである
ところが
直と二郎が旅から家に戻ると
一郎は二郎に
「やったやろ?」
「二郎 お前は信じられない奴だ」
「軽薄だ」と
弟をなじる一郎
いや
信じてる って言ったやん
あんたは「矛盾」だと一郎に反撃する二郎
それでも
一郎は
弟と嫁が「やった」と思い込んで
ダンテの「神曲」に出てくる
夫の弟と恋に落ち、夫に殺され地獄堕ちした
パオロとフランチェスカを引き合いに
二郎を「勝利者」呼ばわり
一郎にイライラする二郎
ええ加減にせえと
家を出ることにする
兄に信じてもらえなかったこと
得体の知れない兄嫁の正体
「たいていの男は意気地なしね、いざとなると」
和歌山の宿
蚊帳の中でそう言った兄嫁 (前述の通り)
他者の他者性に恐ろしい心持がしたことも事実だ
11 家族=ある=ある=自然
でも
二郎が兄を裏切るわけなんてないのだ
家族なんだから
何もなかった から なかった
ない は ない
でも
一郎の心中では
ない は ある
やらない=やった
にしか思えない
「虞美人草」藤尾兄の「譲ろう」は「譲ろう」
彼らの
ある は ある
ない は ない
自然に忠実に真心で生きる人たちだからだ
しかし
反自然の人には
誠実な人をも
真心も
逆説的=反対に見えてくる
「やってない」のに「やった」
従って
「博士号取得」のため
などという
「偽善」の嘘も必要に思われ(「虞美人草」)
「こころ」の先生もKの裏をかく
このように
不自然=「目的」を伴う偽善の言説は
常に
逆説のかたち をとる
「家を出ろ」は
「家を出てくれるな」=
「反対」のことを言わねばならない
自らが
あるがない
ないがある
だから
他者も
あるはない
ないはある
を言っていると思い
即ち
反対を言わねばならぬと思うのだ
バカだ💔
12 真実の遅延=自然の制裁
信じ切っていた親族に裏切られた先生は
自身も
自身が最も蔑む人間と同等になったことに
苦しみ わたしにこのような遺書を遺し
自殺する
先生はやっと「遅れて」気づいた
Kが先生に騙されて
どんなに哀しかったか
「なぜ もっと早く 真実を言わなかったのか」
Kは
先生が女を奪ったから自殺したのではない
「先生がKに
ある時期に告白しておけば、さしたる問題は生じなかった」
取り返しが付かない問題は 告白の「遅延」
真実=自然 は必ず 「遅れて」復讐する
フラッシュバックというのを皆さんもご存知だろう
海外で舞台化される程
海外で人気の漱石の「夢十夜」の第三夜に
盲目の子を背負って歩いていて
突如
「100年前にお前は俺を殺したな」
と言われた途端、
背中の子供が重くなるのに同じで
真実は
「間に合わなかった」分を
「間に合わす」ために
必ず遅れて帳尻合わせをする
Kの喪失 に 対する 先生の喪失 (「こころ」)
のように
「遅れて」
埋め合わせるのだ
平岡 (安井) の喪失は
「それから」の
それから=「門」で 子どもの喪失として補填される
ある=ある
ない=ないが「自然」だからだ
自然の制裁は恐ろしい
フラッシュバックは
罪は
自然は
自身を助けようと
マゾヒスティックに
徹底的に自身を追い続ける
「こころ」の先生の最期
自身の罪が自身を鞭打ち
心の「牢屋」で
生きながら死に
あまりに苦しくて
死に安楽=生きた心地を求め
死を選ぶ
少し長いが
これを説明している
「こころ」(五十五)の遺書の末尾を引用しよう
13 羊には羊
ね?
夏目漱石 読み進めるの辛いでしょう?
だから 代わりに説明を努めたのです
「三四郎」の
美禰子同様
迷える羊🐏には 迷える羊🐏🐏
逆に返すしか
通じない
つまり
美禰子は諦め
自らも迷える羊🐏となったのだ
三四郎との初めての出会い
の「思い出」の自分を
自画像として描かせ
「第二の美禰子」を
永遠に
一枚の絵に封じ込め
葬り去るしかなかった
「因縁」じゃないねん❗️
美禰子は
わざわざ
あの出会いの時と同じ服装 同じ構図を
「当人の希望」として
画家に「わざわざ」描かせ
美禰子の三四郎への愛を
額縁の中に
「森の女」として 閉じ込めたのだ
美禰子はこうして
第一の美禰子と
第二の美禰子=油絵「森の女」
二つの世界の矛盾を人工的に
解決するために
他の男性のところに嫁いで行った
しかし
迷える羊がもう迷わないためにしたことが
夏目漱石作品のスタートとなる
それが「三四郎」
勿論
その後日談は
「それから」「門」
「彼岸過迄」「行人」「こころ」…
轢死のシーンで始まるトルストイ「アンナ・カレーニナ」の日本版にも思える
「三四郎」
自己の葬り去り方
トルストイと
漱石
全く違う
森鴎外がこう言った通りだと確かに私は思う
が 美しい🤩
「三四郎」は
日本の美🇯🇵とでも言おうか
「アンナ・カレーニナ」より見事だと思うのは
私だけであろうか
そして
ローレンス・スターンが
観念連合の
不自然を不自然に叙述し不自然を批判した
そのテクニックもコミカルなのだが
スターンの影響を受けたという漱石の
ある=ない
不自然の物語も
「すごい」
バッラバラ の 非同一に次ぐ非同一
柄谷行人氏が
「漱石がもっと長生きしてたら
「吾輩は猫である」に戻ったであろう」
と言ってるが (「漱石論集成」)
私もその通りだと思う
バッラバラな「猫」の続き
読みたかった
漱石の遺作となる未完成の「明暗」も
元々 結構「多声的」で「非同一」だったから
漱石でない非同一の他者が
「続明暗」(水村美苗)
を書いても普通に
「自然」に感じた🤭 (矛盾だぁ❤️🩹)
から
新「猫」はきっと
「神話」的「坊っちゃん」なんかより
もっと有名になったであろう
でも
漱石はいない
間に合わない は 間に合わない
我々は
「赤シャツ」「野だいこ」「うらなり」「山嵐」として「分裂を余儀なくされて生きるほかない」
(夏目漱石「坊っちゃん」in柄谷行人「漱石論集成」)
14 母が母でないという不自然
届かなかった
漱石の
お母さんのお守りは届かなかったのだ
ある は ある
ない は ない
「自然」体で
スッキリな「タッチ」と
「間に合わない」を「間に合わせる」不自然
=逆説の漱石
どちらが皆様のお好みであろうか
違いはどこにあるのか
「ハムレット」のお母さんへの猜疑
「彼岸過迄」の息子の母への猜疑
藤尾母より息子への猜疑 (「虞美人草」)
「こころ」の叔父への猜疑
一郎への二郎への猜疑 (「行人」)
VS
「タッチ」のお母さんの「愛」
信ずるべき人を
信じられる人を
信じられなくなった時
全ては「逆説」となるのだ
アリストテレスが
「オィディプス」と母の近親姦の悲劇が
再認による逆転を生む悲劇の最高峰
と指摘した通りだ
ハムレットは信じていたハムレットではなく
オィディプスも信じていた自分でもない
母が信じていた母 ではないから
みんな真実からズレていく
シェイクスピア=ハムレット
夏目漱石=先生 二郎 代助…
という
ノットイコールという不自然
ある=ない
つまり
「物語」=「虚構」が存在し
エリオットのいう客観的相関物を喪失するのだ
自身になかなか到達できない
「間に合わない」を
「間に合わせる」
それが漱石作品
15 間に合わないに遊ぶ客観性
その「ずれ」を「ずれ」として
認められず
非同一=相対に絶対を行動で模索しようとした三島由紀夫や
妄想に生を与える川端康成の
処女性や少年愛追求はまさしくその「足掻き」
そして
「道化」となるほかなかった芥川龍之介
「かのように」距離を置いて遊び「情がない」と非難される森鴎外
を「格好いい」という
現代作家 平野啓一郎さんは
実際にお会いして確信したが
「客観性の美学」
1語1語 語彙を丁寧に選び
間に合わせようと焦ることもなく
穏やかに
「間に合わない」をありのまま
客観的に詳らかにする
この度 映画公開(11/8) される平野作品「本心」は
夏目漱石の「こころ」から来ている。
日本文学 すごいのだ😍👍
ハン・ガンさんが今回ノーベル文学賞をとったが
日本人の次なる受賞を楽しみにしている
現在 並行して
平野啓一郎の「分人論」の行方としての
「分」「身」論研究のため川端康成を再読中
またお立ち寄り下さいませ❤️
スターンに関しても
note旧稿をお読み頂ければ幸い💚
A → B だから
B → A ?
恋愛 → 結婚
結婚 → 恋愛 ? は同じ愛?
歪んだ観念連合は
この恋愛=Aが真実だと思い込ませてしまう
「詩学」第24章 (アリストテレス)
ホメロスの得意技
誤謬の観念連合が生む激情の
悲劇と喜劇
ソクラテス=プラトンは
「真実でもないことのために
仲間となり友となるもの」を
不健全
悲劇や喜劇を
真実=イデア(理想)から離れると
「国家」第10巻(603A-B)
で批判しているが
アリストテレスは
笑い 泣くことで
逆に
認知力は促進
あざむきが滑稽さを生み
真実から遠く離れたものと同化された対象への
共感を呼ぶと「詩学」で悲劇や喜劇を肯定している
人間の真実こそが 虚構(イデア)
イデアによるプラトニズムも反転しているのだ
=ニーチェ
天= 真実=イデア =虚構
地= 虚構 =真実=イデア
16 学校で学んだ漱石:客観的相関物なんてない!
だから
漱石は「私の個人主義」で
学校で学んだ「坊っちゃん」覚えていますか
「こころ」感動しましたか
試験には下線部が引かれ
夏目漱石は何を意図していたのかなんて聞かれる。
上記引用を再読ください。
漱石 なんて言ってますか?
客観的相関物なんてどうでもいいのです。
漱石にすら漱石が分かっていないのですから。
漱石の理解できない自分=「こころ」です。
つまり漱石にだって正解は分からないのです。
それを我々
漱石でない人から漱石を学んでいたのです。
漱石を読まずに他人のノート借りて 笑笑
川端康成も同じ
「16歳の日記」など
大半は「授業時間中に書かれて」る
「図画授業中、英作文授業中
などというのもあるが、
国語授業中というのが多いようである」
とは本人筆。
漱石は
大学の講義でさえ聞いていなかったんですって
学習院大学に講演に招かれ、講演開始早々
こんなん 講演でいうことちゃうやろ🤣👏👏
実は彼 大学で教鞭をとったこともあったそうで
超面白くなかったそう
その発端が上記 学習院大学
講師として就職が決まりかけていて
そして仕事を失ったから
モーニングを持って
「坊っちゃん」誕生
日本の漱石 不真面目でよかったですね
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