見出し画像

金剛経における二つの釈迦牟尼仏解釈:哲学的文芸論における法華経思想に関する研究ノート(付録:陀羅尼品五番神呪全文)




「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」(法華経如来寿量品第十六)

・本稿の主要内容
広義の法華経思想及び法華経徒(日蓮とその他の全ての教派)としての日蓮思想とそれぞれの思想の比較
仏教(法華経、般若経)の四つの福徳利益の法による金運向上
皆目抄における法華経と金剛系経典の関係
法華経と普賢菩薩(真言宗との違い)
大黒天を上回る御利益について
ヨハネ主義と仏教
八幡神道の本質
日蓮思想と金剛経及び石門心学の関係性における阿弥陀如来(日蓮ルター非同一説)
日本仏教研究の座標軸(四象限)
日本人と白人の宗教観の比較、仏教における西洋との弁証法(上座部仏教と大乗仏教、ゼウスについて)
釈得稲荷(INRIと法華経寿量品)について(*最上稲荷とは異なります。)



・本稿の法華経解釈

 日蓮教学の等式(純粋な日蓮教義)=久遠実成の報身である本師釈迦牟尼仏に拘らず、この等式を批判的に検討して法華経思想その他の八宗に渡る殆ど全ての仏教思想を再解釈して独自の観点から新たに包括的に体系化。*ただし天台密教の根本経典にある金剛頂経では久遠実成の報身は大日如来(伊勢神宮の主祭神である天照大神の本地である大日=ゼウスに相当する。)であり法を説いたのも大日如来とされ、その教えを受けた法華の授持者は金剛薩埵(釈迦牟尼仏の脇侍である普賢菩薩、金剛経における須菩提、又は衆生と同じ境涯にあり衆生の光明となった阿弥陀如来含む。)となり大日と衆生を結合する方便力を付与されるのである。)。本稿の法華経解釈では天台密教における法身である教主大日如来(ゼウス)及び金剛薩埵の光明のことである。*空海が根本経典とした理趣経は、大乗仏教とは何かを説く『般若経』(金剛経・般若心経)の思想を基礎として成立した教典であり(松長有慶 『理趣経』中公文庫。)、本稿では般若経的基礎を持つ大乗仏教だったとしている。本稿の法華経解釈では法華経の普賢菩薩の教えを基礎としており、金剛経及び般若心経との関係を重視している。
理由1日蓮は神王国御書で密教経典である金剛頂経と法華経その他の経典との矛盾を批判して自分の法華経解釈と真言思想・天台思想を区別しているのであり、日蓮教学では、金剛頂経を巡って、日蓮の独自の法華経解釈が示されるのである。なお、後述するが、日蓮は般若経典系を排除したことにより、本稿の研究成果からは、理性面を司る普賢菩薩並びに感性面を司る文殊菩薩の論理を超越したメタ的な神秘的関係性に基づく釈迦牟尼仏の創出が行えなくなり、如来の資格である法を得ることも出来なくなってしまったことを指摘している。ただし、法華経そのもののご利益が無くなったわけではなく、真言宗や天台宗は観音経をも重視している。日蓮は承久の乱での北条氏の優勢を根拠として、真言宗が密教を通じて法華経に通ずる道を遮断した仏教思想家であり、そのことにより、法華経解釈を独占していたのである。しかし、そのことにより、日蓮は危険な苦行を行う密教から衆生を守り仏道を成就させていたのでもある(逆に密教的なら日蓮は関わらない。ただし、日蓮宗は荒業も行うので実は今でも密教に通じ朝廷方とも連絡を保っているのではないか。なお、仏教の最高位の戒名である院殿大居士を創設したのは北条氏を破った足利尊氏である。足利氏は明治維新後反朝廷方に付くことになったが(そのため反対に朝廷の建てた明治政府の正統的仏教観は従来からの朝廷の正統的仏教思想だった親鸞等の浄土系念仏思想であった。日蓮宗は源頼朝及び北条氏方についていたことにより朝廷中心の明治政府からすれば準正統的仏教思想であったことになり、院殿大居士号が得られなくなったのと同じであったのである。また、現在の皇室の起源である北朝も、実は足利尊氏が建てたものであり、皇室と仏教の関係を考えれば、念仏以外の仏教がなかった日本社会には、源頼朝よりも独裁者的支配者は日本史上誰も居なかったのである。しかし、念仏宗と日蓮宗は織田信長の本能寺での対立に現れているように念仏と日蓮は、禅と日蓮以上に相容れるものではなく、武家政権成立以来日本国内で戦争が発生する場合の中心的契機であった。)、明治政府は廃仏毀釈の他にキリスト教化を積極的に進める必要があったのである。)。以上のように、本稿では念仏に批判的な源頼朝及び北条氏寄りの日蓮教学を越えて朝廷中心の日本千年来の正統的仏教観、特に近代哲学に基づき、釈迦牟尼仏と阿弥陀如来の関係を、明治以降の日本人に相応しいように独自に追求した仏教思想のなのである。日本における徳川家康の念仏やフランス語圏におけるロマンロランや親鸞で念仏が有名な仏語及び日本語圏だけでなく英語圏では念仏が古典的な市場の文化的基礎であり、英語圏だけでなく日本やフランスでも八幡大菩薩や阿弥陀如来が売物としての仏教思想のスタンダードになっている。
理由2:空海は最後には阿弥陀如来への帰依を勧める立場に立つことになったので、空海より念仏を基にした日蓮が有利になった点もある。日蓮宗は鎌倉幕府に着いていたので、真言宗と日蓮宗は念仏宗以上に争った程だが、真言宗は阿弥陀如来の念仏を唱えることを軽視した点が欠点となった(*後述するが真言宗が念仏を唱えても念仏宗とは大違いの意味合いがある)。しかし、本稿では、日蓮主義よりも、法華経本来の思想である世尊の教えを通じて阿弥陀如来の法をも得ることを重視しており、そのため法華経だけでなく金剛経・金剛頂経(法華経では観音経部分)をも授持し般若経典へ通じて、その思索の結果は、聖書の意味を理解するために応用されることになった(無教会主義における代表的日本人として西郷隆盛を重視したこと)。釈迦牟尼仏は阿弥陀如来である。世尊(釈迦牟尼仏)の教えは阿弥陀の教えの方便であり、阿弥陀如来の法を得せしめる教えなのである。釈迦牟尼仏の教えにより阿弥陀如来を根拠としなければ仏教の教えは成り立たない。法華経の中心的概念である衆生の方便力(釈迦牟尼仏)は、般若経における廻向一切智である阿弥陀如来の念仏により得られたものであり、人間に本来から備わっている真の人間性としての法、釈迦牟尼仏を通じて阿弥陀如来の法を説く法華経の教えは、廻向一切智による無畏施という般若経の教えに帰結する。
理由3:本稿では法華経の他に日蓮が排除した般若経典を中心にしており、日蓮が結果としての釈迦牟尼仏のアポステリオリな科学的分析を説くのに対して、本稿は釈迦牟尼仏へ至る前段階の始源にある阿弥陀如来のアプリオリな文芸的総合をも基礎として重視しているという違いがある(カント的人間主義に反して、哲学的文芸論入門で述べた通り、文芸なくして科学はない。)。本稿は言わば西郷隆盛の思想の他に無教会主義の根本にある反朝廷方に立った源頼朝と運命を共にする日蓮教学に止まらない広義の法華経思想を通じて広い仏教界の全諸仏諸菩提菩薩諸神に通ずるために存在する。本稿では、無量寿経における親鸞の教えとは反対に、予めにありとあらゆる生き物や一人一人の人間の意義である諸仏諸菩提菩薩諸神の仁に帰依し挺身した五百羅漢の水の如き宗教的経験を求めるという本稿のテーマ(顕密一致による迹仏帰一十界皆成)を探求し真に釈迦に仕え悟達することを説いている。

 八幡神(正一位。最高官等である鎮守府将軍に相当する。八幡神は弥勒菩薩の守護神。→弥勒とは末法法華の行者で自誓授戒した得度者と同じであり一念三千の方便であり、法華信仰での経文そのものとされ、寿量品において弥勒は一念三千により法華経の対告衆となった。弥勒菩薩は一念三千の念により本仏に通じるが、その本師本仏釈迦牟尼仏は、予め弥勒菩薩の内に存在していた仏性(菩提心、勢至菩薩→観普賢経)に他ならず、仏と人間の間でのメタ的照応における弥勒菩薩こそが釈迦牟尼仏だったのであり、弥勒菩薩及び普賢菩薩の内に本師本仏である釈迦牟尼仏の説いた仏性を凡ゆるものの中に求め、念仏により十界皆成することにおいて他には、仏教の信仰はないのである(西田幾多郎の汎神論的な自然宗教や政治神学に近い宗教思想である。)。弥勒菩薩(普賢菩薩)の中の仏性に本師本仏を求めれば遍く衆生が悟りを開くことになる。方便品における弥勒の一念三千こそが十界皆成させ迹仏を帰一させる。弥勒の一念三千とは開目抄に説かれた衆生に予め備わっていた仏知見である十界互具のことであり、「観心本尊抄」における南無妙法蓮華経という七文字からなる唱題の本尊を唱える勧心修業のことである。また、弥勒菩薩は観音のように慈悲深い慈氏菩薩とも呼ばれ、日蓮教学の制約を越えて広義の般若心経に通じているのである。観音経の慈悲慈愛こそが弥勒の一念三千の仏性である。)=弥勒は真の法華経の授持者
○八幡神や八幡大菩薩は、念仏宗や聖徳宗に関わることを禁止されているのと同然であり、本稿の日蓮解釈により純粋な法華信仰に入ることができる。八幡神・八幡大菩薩は弥勒菩薩(小品般若経において須菩提に般若波羅蜜説を教説した大乗仏教の説法者*法華経の主人公的存在とされる弥勒菩薩は般若経典の説法者なのである。)の守護を通じて、弁財天(文殊菩薩)の御利益のある金剛経・維摩経・稲荷心経等の般若経典を根底とした真の法華経の授持者となるために発せられる光明の大菩提心である。

法華経=弥勒菩薩(観音経)=般若経(弥勒菩薩が般若波羅蜜(如来になる資格)を教説した須菩提が登場する小品系般若経典の○金剛経)=金剛頂経(cf.天台密教)=金剛薩埵=普賢菩薩(金剛界の理)=大日応化身の神性における文殊菩薩との包摂的な本体論的一致(○維摩経または文殊般若経=無生法忍の菩提心陀羅尼・大品系般若経典)=文殊菩薩((般若波羅蜜。不退の菩薩である弥勒。胎内界の智)=弁財天*『ナーマサンギーティ』註釈-瑜伽タントラ系註釈)=大日如来(ゼウス)≒天照大神→大日はタントラ系注釈では弁財天と同じ意味になる

稲荷大明神(特に最上稲荷では法華経の意味。*なお、本稿における稲荷大明神の独自の位置付けは後述)=観音経=般若心経=金剛経(普賢菩薩)=法=法蔵=阿弥陀如来(授戒)=中将姫の観音経に含まれていた阿弥陀如来を得る道=哲学的文芸論における観音経解釈部分=八幡大菩薩(阿弥陀如来)=法華経を守護する八幡神(八幡神は武人のための阿弥陀如来だけでなく法華経との関係も大きいとされる。→八幡神の教えは法華経の第一義[久遠実成の報身である本師釈迦牟尼仏]と一致する。→法華経思想=八幡神)
→阿弥陀如来を得るには法を得る必要があるのであり、それは日蓮宗や浄土真宗で唱えることが禁止されている般若経における如来の資格である神通力(法華経草喩品)により得られる最高の知恵の完成を意味する般若波羅蜜(無尽解脱法門)である。日蓮宗や浄土真宗は般若経の読誦を禁止しているが、本稿では観音経における弥勒菩薩の一念三千を通じてその基礎にある般若経典系へ至り、維摩経の教えを元にして、最高の知恵の完成である般若波羅蜜=如来の資格である空の法を得る。そのことにより、本稿の思想は、稲荷大名神(法華経、特に観音経)から観音経の弥勒の一念三千の教え(本稿における隠し念仏)に入り、空海が本来から根本経典としていた般若経典の法=阿弥陀如来の感得をも行い、同時に弥勒の守護神である八幡大菩薩や八幡神にも至るのであり、本稿の思想(法華経の立場からの隠し念仏思想*曹洞宗と違い念仏系が充実し八幡大菩薩や法華経思想とも整合する。)に依れば法華経思想の立場からも般若経の教えに関わることができるのである(もし、日蓮宗や浄土真宗のように、般若経の読誦を禁止されているのなら、弥勒=菩薩摩訶薩の守護神としての八幡大菩薩に帰依する以外ない)。
→念仏とは無量の光明による無為者の悟達である。

ここから先は

51,596字
この記事のみ ¥ 100,000
期間限定!PayPayで支払うと抽選でお得

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?