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#854 シェークスピアに比べて、上中下どの位置にいるのか

それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。

「第八回」は、近松門左衛門の霊が嘆いた内容に対して、主人公が返事をするところから始まります。答えていわく、虚と実と被膜の間に美術ありという高説、面白く承った。「虚」は広くして限りなければ、一切の法相を覆って余りあり、「実」は狭くして鋭ければ、特殊な法相が躍如して飛動する。「実」は差別、「虚」は平等、「実」は個性、「虚」は通性、詩人の本領とは、この虚実の二字である。しかし、この二字の境を弁えるのは簡単ではない。そなたの作を見るに、おおかたは「虚」であり、虚妄が甚だしいのはシェークスピアにも優っている。名工の筆からなる神怪の絵は、形は「虚」であるが真に「実」である。形の「実」を重んずるのは、理の「実」を重んずるよりも甚だしい。時代物の劇を作れば、事実と風俗に力を尽くすが、人情の「実」は却って空しい。形而下の論理に目がくらみ、形而上の論理を忘れるゆえに、虚実の境に戸惑ってしまう。そなたを日本のシェークスピアと褒めるに、形無き評であってはならない。そこで、聞き申す。そなたは中年まで荒唐無稽の時代物ばかり書き、老後には自然派の人情物を書いたのには理由があるのか。

今昔[コンジャク]われら程の者、日本國[ヒノモト]にござ無きはいふまでも無き事なり。シェークスピヤとかやいふ鬚唐人[ヒゲトウジン]にくらべて、如何[ドウ]ござるぞ、上か、下か、眞中[マンナカ]か。お手前の問[トイ]よりも、此返辞先づきゝたし。

おぬしはシェークスピアと比べて、上中下どの位置にいるのか、と中々酷な問いを投げかけていますね。

我等は人情の卜屋[ウラヤ]さん、多年喰[タ]べつくした世辞はもう食[タベ]ぬ。たしかなる證據[ショウコ]がきかせて欲しい。たヾしは論に及ばぬ、とならば、自力にて今日只今[コンニチタダイマ]、即身成佛つかまつるが、故障はないか。と退[ノ]ッぴきさせぬ手詰[テヅメ]。我れ大[オオイ]に敗亡[ハイモウ]し、いづれ當時[トウジ]の三批評家をはじめ、其他[ソノタ]の人々とも相談の上にて、と流石[サスガ]軽薄らしう今更にいはれず。誓文[セイモン]世辞ではなかったが、口がすべってほめすぎて、とんだ事にまかりなった、と吐胸[トムネ]つきて困却[コンキャク]の危急[キキュウ]の折もよしや、壇[ダン]轟[トドロ]いて神鏡[ミカガミ]ゆらめき、無数の怨霊のけはひして、あな舌長しや堕落僧[ダラクソウ]。人間の本相[ホンソウ]とやらんの見えたる作は、汝[オヌシ]のゝ外[ホカ]に絶[タエ]て無しとや。人も無げなり。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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