#812 平等と差別は表裏通じて離れない!
それでは今日も坪内逍遥の「梅花詩集を読みて」を読んでみたいと思います。
逍遥は、詩人の世界を、「心の世界」と「物の世界」に分けます。「心の世界」は「虚の世界」にして「理想」であり、「理想」を旨とする者は「我を尺度」として「世間をはかる」。彼等を総称して「叙情詩人(リリカルポエト)」とし、天命を解釈する「一世の預言者」とし、「理想家(アイデアリスト)」とします。「叙情詩人」は、作者著大で、「理想」の高大円満であることを望み、一身の哀観を歌い、作者の極致が躍然し、万里の長城のようである。「物の世界」は「実の世界」にして「自然」であり、「自然」を旨とする者は「我を解脱」して「世間をうつす」。彼等を総称して「世相詩人(ドラマチスト)」とし、造化を壺中に縮める「不言の救世主」とし、「造化派(ナチュラリスト)」とします。「世相詩人」は、作者消滅し、「理想」の影を隠し世態の著しさを望み、小世態を描き、作者の影を空しくして、底知らぬ湖のようである。我が国には短歌・長歌・謡曲・浄瑠璃等あるが、一身の哀観を詠ずる理想詩にとどまり、現実を解脱できていない。このたび、梅花道人があらわした新体詩の、物象を解脱し造化を釈す試みは、まず喜ぶべきである。山田美妙や宮崎湖処子の新体詩は造語造訓が難渋であるがために理解されない事が多いが、梅花道人の作はこれと異なり所々死語を活かし、大体を純然たる国文調にして、荘子のような楽天詩人であること火を見るより明らかである。技術と観念を兼ねそなえてはじめて詩人である。造化派は自我を脱して各性情を霊写すべき大任があるため大技量を要するが、叙情派は観念を有形・総合・描写すれば足りるため技能を比較的要しない。梅花道人は後者に属す。梅花道人が切磋琢磨し、技量を長じて、新日本の大預言者たらんことを求めなければならない。梅花道人は水の月の如く、うたかたの泡の如し。人間は飯を炊く間の夢に遊ぶ旅人の如し。未来を説くをやめよ。進歩を説くをやめよ。万法もと虚空なり。造化もと無情なり。本来空であるのに進退に何の損益があろうか。梅花道人は荘仏を祖述して虚空を説く者である。
アルフレッド・テニソン(1809-1892)はロバート・ブラウニング(1812-1889)と並ぶビクトリア朝を代表するイギリスの詩人です。
というところで、「梅花詩集を読みて」は終了します!
さて、このあとに取り掛かるのは、「烏有先生に答ふ」の「其の二」の次の箇所です。
坪内逍遥は、1891(明治24)年5月15日から6月17日にかけて、読売新聞にて『梓神子』を全11回で連載します。
この戯文も、のちに鷗外から批判される対象となるため読んでいきたいのですが…
それはまた明日、近代でお会いしましょう!