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#885 日本語の堕落を嘆く怨霊たち

それでは……本日も、没理想論争前哨戦の逍遥サイドから振り返ってみたいと思います。今日も、『小説三派』『底知らずの湖』『梅花詩集を読みて』につづいて『梓神子』を振り返りたいと思います。

滝沢馬琴そして井原西鶴の怨霊に次いで、巫女に乗り移るのは、近松門左衛門の怨霊です。主人公は近松の嘆きを聞いた後、逆にこんなことを問い掛けます。

世間が足下[ソコモト]をほめて、日本[ミクニ]のシェークスピヤといふは、形の無き評[ヒョウ]にあるまじ。……序[ツイデ]ゆゑにきゝ申す、足下は中年まで専ら時代物ばかりを作り、而[シカ]も無稽荒唐[ムケイコウトウ]の書きざま、形の虚妄甚[ハナハダ]しく、……老後の作は打[ウッ]てかはりたる自然派の虚實を兼ね、人情専[ニンジョウセン]とかゝれしには、譯[ワケ]ばしあっての儀でござるか。此答[コタエ]うけたまはりたい。(#853参照)

今昔[コンジャク]われら程の者、日本國[ヒノモト]にござ無きはいふまでも無き事なり。シェークスピヤとかやいふ鬚唐人[ヒゲトウジン]にくらべて、如何[ドウ]ござるぞ、上か、下か、眞中[マンナカ]か。お手前の問[トイ]よりも、此返辞先づきゝたし。(#854参照)

しかし、近松はこれに答えず消えてしまい、このあと、無数の怨霊が現れます。

物語の親を忘[ワスレ]たるか。あをによし奈良の昔の八重櫻、かはらで匂ふ我作[ワガサク]を何とか見つる。げにこそ盲人[メシイ]、物におぢず。物知らぬしれものばかり無禮[ナメ]なるはなかりけり。(#855参照)

と、まずは紫式部と思われる女性の霊が嘆きます。さらに、

しやつら手爾葉[テニハ]の使ひざまだに得しらぬを、文人[ブンジン]にてはべるの、詩人[ウタヨミ]にてはべるのと、みづからおもひあがり、人にも持てはやさるゝこと、世の末[スエ]になりにたる兆[シルシ]にて、言魂[コトダマ]のさきはふといふ此國[コノクニ]の恥辱[ハズカシメ]になんある。(#855参照)

と、男性の霊が嘆きます。さらに、

今の文人、焉[エン]、哉[サイ]、呼[コ]、也[ヤ]の使ひざまだに知らず。有[ウ]と在[ザイ]と至[シ]に到[トウ]との別をも辨[ワキマ]へず、愈再拜[ユサイハイ]とあるを見ては、いよ/\再拜[サイハイ]と訓[ヨミ]をつけて、書簡の尾毎[シリゴト]につけ、雪の欄檻[ランカン]を擁[ヨウ]して馬の前[スス]まざるを歎[ナゲ]く。甚[ハナハダ]しきに至りては、豈[アニ]慨歎[ガイタン]すべきの至也[イタリナリ]と書く。豈慨歎すべき至極にあらずや。(#856参照)

と、「漢文学」の霊が嘆きます。

日本文学史の成り立ち、助詞・助動詞の使い方、漢文の読み書きなど、作家の評価・批評態度以前に、「日本語」を取り巻く根本的な知識の堕落を指摘します。

そして、数々の怨霊に取り憑かれた巫女はついに気絶してしまうのですが……

この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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