#829 ちょっとだけパノラマ館の話
坪内逍遥の『梓神子』では、かつて作家だったと思われる怨霊が、巫女に乗り移って、自身の勧懲主義の物語を自慢するのですが、口寄せを依頼した主人公の「おのれ」は、怨霊の言う勧懲は、ガス灯時代の丸行燈のように役立たずで、パノラマの煙と真の煙のように、現代の勧懲とは似て非なるものだと非難します。
ギリシャ語の「all」という意味の「πᾶν (パン)」と「sight」という意味の「ὅραμα(オラマ)」を組み合わせた「パノラマ」という造語をつくったのは、アイルランドの画家であるロバート・バーカー(1739-1806)です。
中央に配した観覧者を取り囲むように、円環状の壁面全体に精巧な風景画を描いて、目の前に遠大な情景が広がっているように見せたある種のトリックアートで、バーカーは1787年6月17日に特許を取得します。バーカーは、1789年にエディンバラ大学内で初の展示会を開催します。最初の作品はカールトンヒルから望むエディンバラの風景でした。
まず円筒形の建物に入場します。エントランスから長くて薄暗い廊下を歩き、中央のらせん階段を上ると展望台に到着します。建物には天窓が施されていますが、展望台には天蓋が設置されているためお客さんに外光は当たりません。目が薄暗さに慣れたころ、展望台に立ち周囲を眺めると、そこには淡い光を帯びた、まるで山の頂に立ったような壮観な景色が広がっています。これがパノラマの典型です。
1793年、バーカーは、ロンドンのレスター広場北側に、本格的なパノラマビルを建設します。壁面の絵画に光を当てるため、屋根は2組の天窓で構成され、本来天蓋を設ける場所に、もうひとつのパノラマ部屋を設ける2階建て構成で、お客さんは3シリングを払い、建物外側のらせん階段から2階に入ります。このパノラマビルで、バーカーは大金を手に入れます。
それから約100年の月日が流れ……
1890(明治23)年5月7日、上野公園内護国院前の敷地200坪を東京府から借り受けて、日本初の「パノラマ館」が開館しました。外部をレンガで組んだ、直径22メートル、高さ11メートルの建物には、「上野㡧畵舘」と書いて「うえのパノラマ」と読ませる、なんとも覚えにくい漢字が当てられました。パノラマの絵は、戊辰戦争を描いた「奥州白川大戦争図」で、広告にはこんな風に書かれています。
入場料は五銭で、当時のお米一升とほぼ同じ金額でした。
この約25年前の1866(慶応2)年12月、パリ万国博覧会に出席する徳川昭武(1853-1910)の随員として渋沢栄一(1840-1931)がフランスへ渡航します。#426や#546などでも紹介している渋沢は、パリのパノラマ館を見学し、帰国後、安田善次郎(1838-1921)や大倉喜八郎(1837-1928)らとパノラマ興業のための会社を設立します。その結果、誕生したのが、浅草公園六区の「日本パノラマ館」でした。「上野パノラマ館」誕生の、わずか2週間後の5月23日のお目見えです。直径36メートル、高さ30メートル、輸入価格10万円でサンフランシスコから取り寄せた南北戦争図を展示し、5ヶ月で20万人もの観客を動員したそうです。
「パノラマ館」については、萩原朔太郎(1886-1942)は『宿命』(1939 創元社)のなかで「私は子供の驚異から、確かに魔法の国へ来たと思った」と書いており、斎藤茂吉(1882-1953)は「三筋町界隈」(文藝春秋1937年1月号)のなかで「東北の山間などにいてはこういうものは決して見ることが出来ないと私は子供心にも沁々[シミジミ]とおもったものであった」と書いています。
しかし、日本が「パノラマ館」に注目するのは若干遅かったようで……
我々の移り気な「目」を捉えるのは、1896(明治29)年11月、神戸の神港倶楽部が端緒を開いた「映画」に取って代わられることとなります。
ということで、あらためて、『梓神子』第四回に入りたいと思うですが…
それはまた明日、近代でお会いしましょう!