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#888 逍遥の「叙情・世相」、ハルトマンの「叙情・叙事」、ゴットシャルの「理想・実際」

それでは、今日から没理想論争前哨戦を鷗外サイドから振り返ってみたいと思います。

鷗外の批評は、逍遥の「梅花詩集を読みて」に移ります。

小説三派の外、逍遙子は別に詩の二派を立てたり。其一を叙情派又理想派といひ、其二を世相派又造化派といふ。(#871参照)

そして、今回も、早々と、ハルトマンの言葉にすり替えます。

逍遙子が叙情、世相の二派は、ハルトマンが審美學上、叙情詩、叙事詩の二派に當れり。(#871参照)

で、このあとが、おそらく没理想論争前哨戦の要のところで、この段階では「没理想とは何を意味しているのか」ではなく、「ドラマとは何か」が主な論点となっていると思われます。鷗外はこんなことを言っています。

ハルトマンのいはく。叙情詩は客觀の相に勝ちたる主觀の情を以てその質とす。……是れ豈[アニ]逍遙子が所謂、我を尺度として世間を度[ハカ]るところにあらずや。又いはく。叙事詩は客觀相を以て、その偏勝の質とす。……是れ豈逍遙子が所謂、我を解脱して世間相を寫すものにあらずや。
ハルトマンは此二門の外に、戲曲門Dramatikを立てゝいはく。叙情詩にては、主觀の情、客觀の相に勝ち、叙事詩にては、客觀の相、主觀の情に勝ちたれども、戲曲に至りては、情と相との平均を取戻さむとす。……逍遙子が「ドラマ」はこれに殊なり。固有、折衷、人間の三派を分つときは、人間派を以て、最狹き意義にていふ「ドラマ」の結構とす。これに對する叙事詩は固有派に屬し、折衷派は「ドラマ」と叙事詩との界に立てり。……人間派の旨、若小天地想に在らば、是れ叙情詩、叙事詩、戲曲の三門を通じて求めらるべきものなれば、われこれに配するに「ドラマ」を以てせむことを欲せず。彼客觀相をして偏勝せしむる世相詩人の作、即沒主觀情詩(梓神子にいはゆる沒理想詩)は、もとより相と感と並び至らむことを望める戲曲にあらざれば、これを「ドラマ」といはむも亦願はしき事にあらじ。(#871参照)

ここの「人間派の旨、若小天地想に在らば、是れ叙情詩、叙事詩、戲曲の三門を通じて求めらるべきものなれば……」っていう仮定も、勝手に鷗外が設けたものであって、逍遥の主張とはズレています。

このあと、鷗外は、あらたにゴットシャルの思想を紹介します。

ゴツトシヤルのいはく。造化を模傚[モホウ]し、實を寫すことより出づるを實際主義といひ、理想の世界、精神の領地より出づるを理想主義といふ。是れ逍遙子が所謂自然を宗とする世相派と理想を宗とする叙情派とに通へり。又いはく。實際主義に偏したるものは、心なき造化を宗としたる美術品を得べく、理想主義に偏したるものは、造化なき心を宗としたる美術品を得べし。是れ逍遙子が所謂管見の小世態を描くものと、一身の哀歡を歌ふものとに近し。ハルトマンは理想派、實際派の別を認めず。(#872参照)

ということは、こういう感じでしょうか……

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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