#845 怨霊が入れ替わってることに気づかず読んでました…
それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。
西鶴の霊が自身を冷遇する現在の文界に怒りを込めた恨み節をまき散らしたことに対して、怨霊に取り憑かれた主人公は、迂闊な答え方をしては物笑いになると謹んで答えようとします。人間の身体は有限で、妄想は果てしない。人生五十年、やり場のない限りなき妄想に苦しみ、昼夜夢を見ぬことはない。昼の夢は妄想の掃きだめである。汚物の中から疫病も湧けば、肥料もできる。学問の大発明も昼の夢の結果であるし、大議論も大詩篇も夢の中の寝言である。ただ常住の題目はおもに未来である。労働を厭わぬことも、真理を追究することも総体の未来を思いやればこそである。「陽」は過去を思うように見えるも、「陰」は温故知新で未来の料にすることである。一身の帰着、人間の命、造化の本性、すなわち未来相を知ろうとするのは人間の大欲である。未来を知ろうとするには、過去現在を台として、因果の理を法として測るのである。過去現在ふたつの相は必要であるが、「常識」というものは、このひとつだけで充分足りるものである。十五歳の子の、二十歳の行く末を察するには、五歳の過去より現在から察したほうが簡易である。作者の理想を広くして当代を容れれば、隠然として未来の社会が見える。シェークスピアは、作品の元を古代ローマなどに借りていながら、エリザベスの時代を写している。さらに、小理想を持った人間ではなく、また、自然の教えをそのまま写しているので、現在に至っても、我々の智と情を動かし、未来をも教えてくれる。世話物、時代物と別を立てるのは、皮膚の上の話であって、本体に至っては、その差別はない。
ちょ、ちょっと待ってくださいよ……先刻の曲亭の霊?……もしかして、ぜんぜん、わかってないまま、読み進めてた可能性あるかも……
どぉ~りで、おかしいと思ったんですよ!「第二回」で、勧善懲悪を礼賛していた怨霊が、「第五回」では、勧善懲悪に滅ぼされたと怨んでいるんですよね!#836で紹介した「第四回」で、主人公が怨霊に反論したあと、
と書かれてますけど、つまり、ここで、曲亭馬琴の霊から井原西鶴の霊に入れ替わったわけですね!いやいや、めっちゃ分かりづらいわ!w……いままで「馬琴の霊」なんて、ひとことも言ってないじゃないですか!いや……そういえば、#826で紹介した「第三回」にこんな一文がありましたね……
この一文で、怨霊が馬琴なんて、わかります?w……わかりませんよね?w
ということで、この続きは……
また明日、近代でお会いしましょう!