それでは……本日も、没理想論争前哨戦の逍遥サイドから振り返ってみたいと思います。今日も、『小説三派』『底知らずの湖』『梅花詩集を読みて』につづいて『梓神子』を振り返りたいと思います。
滝沢馬琴・井原西鶴・近松門左衛門など多くの怨霊を口寄せした巫女が気絶したあと、介抱していた主人公のもとに、怨霊に取り憑かれた取次のオヤジが現れ、主人公の批評態度を説教しはじめます。『梓神子』の核心はここにあります。
「批評は裁判ではない」「批評は用不用を目安にしての勘定ではない」「批評とは褒貶の謂いではない」「文章脚色を批評するのは評判の一部である」「シェークスピアの作を標準とするのは偏である」「批評はその作の本旨の所在を発揮すること専とすべし」
そしてやや乱暴なかたちで、こんな一文へと引っ張ります。
この時点では、逍遥は「ドラマ」のことを「没理想の詩」といい、「帰納的な評」を「没理想の評」といいます。つまり、おそらく、この段階における「没理想」という語の意味は、「すべての理想を集約したことによって導き出される普遍性」という感じだったのではないでしょうか……
ということで、この続きは……
また明日、近代でお会いしましょう!