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#886 「ドラマ」=「没理想の詩」、「帰納的な評」=「没理想の評」

それでは……本日も、没理想論争前哨戦の逍遥サイドから振り返ってみたいと思います。今日も、『小説三派』『底知らずの湖』『梅花詩集を読みて』につづいて『梓神子』を振り返りたいと思います。

滝沢馬琴・井原西鶴・近松門左衛門など多くの怨霊を口寄せした巫女が気絶したあと、介抱していた主人公のもとに、怨霊に取り憑かれた取次のオヤジが現れ、主人公の批評態度を説教しはじめます。『梓神子』の核心はここにあります。

一體[イッタイ]貴公批評家の本事[ホンジ]無く、批評の旨も知らいで、批評家気取り笑止の至[イタリ]なり。(#857参照)

何ぢや、未来が如何[ドウ]仕[ツカマツ]ったの、人間の運命が斯う仕ったのと、美術家と卜者[ウラナイシャ]とをヌタにして、説教の胡椒ふりかけたやうな言分[イイブン]。さても怪[ケブ]な。(#858参照)

学問をすれば斯うも愚[ウツケ]が栄えるか、と涙が落[オチ]くさってならぬわい。これらは元より論の外[ホカ]ながら、ひっくるめて貴公達の批評は、手前勘[テマエカン]の理想を荷[カツ]ぎまはっての杓子定規。好悪愛憎[コウオアイゾウ]の沙汰。眞理でござるの、論理でござるのと、表招牌[オモテカンバン]立派なれど、黒字[コクジ]の上々[ジョウジョウ]が平等を知って差別を知らず。……櫻はたかヾ日本[ヒノモト]の花王木[カオウボク]、その外[ホカ]の萬木[バンボク]きり倒せとたがいうた。桃も李[スモモ]も薪にして自然の風物が美しいか。譯[ワケ]もない。(#859参照)

そも/\貴公達が批評を裁判と同じものと心得たが間違[マチガイ]のはじまり。(#860参照)

動物学者といふものを見たか。人間を解剖するも、芋蟲一疋[イッピキ]解剖するも、上下優劣を着[ツケ]いでこそ其道[ソノミチ]に熱心見えて有難い。人間の為の用不用は、葭[ヨシ]のずゐから天井のぞく人間といふ蟲けらの狭い料簡。人間に用が無いとて無造作に棄[ステ]られたものでは無いわさ。よしんば棄るとしやれ、それは用不用を目安にしての勘定、批評家の本分で無い。(#861参照)

老爺[オヤジ]言葉を改め、貴公知らずや、批評とは元褒貶[モトホウヘン]の謂[イイ]にあらず、……評[ヒョウ]とは言平[コトタイラカ]なりといふ意[ココロ]なり、……褒むるも評の本旨[ホンシ]にあらねば、瑕[キズ]ばかりをほぢくるも烏文人[カラスブンジン]の悪戯[アクギ]なり。文章脚色[ブンショウキャクシキ]のみを批[ヒ]するも評判の一班[イッパン]にして、小説は性質の顕著普通[ケンチョフツウ]なるを要す、といふも一班なり。ホーマーの規[ノリ]に外[ハ]づれたるを叙事詩[エポス]にあらずといふも偏[ヘン]にして、シェークスピヤの作を標準とするも偏なり。批評は須[スベカ]らく其の作の本旨の所在を発揮することをもて専[セン]とすべし。……近頃モールトンが唱ふる科学的批評の旨[ムネ]も此意[コノココロ]の外[ホカ]ならず。(#862参照)

「批評は裁判ではない」「批評は用不用を目安にしての勘定ではない」「批評とは褒貶の謂いではない」「文章脚色を批評するのは評判の一部である」「シェークスピアの作を標準とするのは偏である」「批評はその作の本旨の所在を発揮すること専とすべし」

そしてやや乱暴なかたちで、こんな一文へと引っ張ります。

演繹的専断批評の世は逝[ユ]かんとす。帰納的批評の代[ダイ]近づけり。就中[ナカンズク]没理想の詩即ちドラマを評するには、没理想の評即ち帰納評判を正當[セイトウ]とす。(#862参照)

この時点では、逍遥は「ドラマ」のことを「没理想の詩」といい、「帰納的な評」を「没理想の評」といいます。つまり、おそらく、この段階における「没理想」という語の意味は、「すべての理想を集約したことによって導き出される普遍性」という感じだったのではないでしょうか……

夫[カ]の理想詩[アイデアル・ポエトリー]は益[エキ]あれども害なし。特[ヒト]り理想評判[アイデアル・クリチシズム]に至[イタリ]ては、當代[トウダイ]の詩人を誤[アヤマ]らしめ兼[カネ]ては前代の詩人を損[ソコナ]ふ。其罪[ソノツミ]いと大なり。……批評家の眼中より見れば、作者は没理想といふことを主とするも元より不可無く、勧善懲悪といふことを主とするも不可なく、唯[タダ]美是[コレ]寫[ウツ]さむと力[ツト]むるもよかるべし。……悉[クワ]しくいへば、批評家は猶[ナ]ほ植物家の植物を評する如く、動物家の動物を評する如く、理想を離れて其物[ソノモノ]を評すべし、といふのみなり。云々[シカジカ]の作は世に益あり、又は益無しといふは、當世[トウセイ]又は未来世[ミライセ]に対しての評判なり。これは科学的批評にあらずして、實地應用批評[ジッチオウヨウヒヒョウ]などゝいふべし。純粋評判と應用評判との間に別あること、猶[ナオ]純粋哲学と應用哲学との間に別あるが如くなるを知れかし。(#863参照)

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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