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#840 悪いなら悪いと、なぜ親切に言うてくれぬのだ!

それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。

上方を中心に流行した浮世草子の流れが続く時代に、怨霊は生前、物語を25の頃に見聞きしたままに書いていたが、その後、勧善懲悪の大砲を引かれ、我が持仏堂を打ち崩され、紙魚に手足を食われ、古本箱に押し込められ、日の目見ぬ暗闇に埋められたと言います。嬉しいのは、寒月・紅葉・露伴・魯庵、同じ流れの若い人達が我を慕うてくれること!しかし浮世とは定めのないもので……

何時[イツ]棄[ステ]られて、黒暗[クラヤミ]の元の地獄に立帰[タチカエ]るらん、思へば先の嬉しさは、今の怨めしさの種なるぞや。「五人女」の巻頭にて、黒痩子[コクソウシ]が二八十六ペーヂの追薦読経[ツイゼンドキョウ]、有縁[ウエン]は随喜[ズイキ]の落涙[ラクルイ]しぬれど、情[ナサケ]なや無縁の餓鬼には、雲のやうにて手に取られず、嚙まうにも歯ごたへなく、腹には入[イ]らぬと察せぬかよなふ。法事が足らぬ。供養が足らぬ。狸の土船[ツチブネ]浮ばれぬわいなふ。去[サン]ぬる頃、なつかしの露伴沙彌[シャミ]が、草茫々たる国民が原の眞中[マンナカ]に、勇ましう仁王立[ニオウダチ]につゝたち、我がための大読経[ダイドキョウ]、嬉しや此功力[コノクリキ]にこそ修羅妄執[シュラモウシュウ]の雲晴[クモハレ]わたり、成佛得脱疑[ジョウブツトクダツウタガイ]あるまじ、と頼みに思ひける甲斐も無く、恨めしや、末段[マツダン]の偈[ゲ]は何事ぞや。「西鶴畢竟馬前[バゼン]の塵[チリ]」と蹶[ケ]ちらせし一言[イチゴン]。思いづるも怨[ウラミ]の種よなふ。我に供養の経[キョウ]にはあらで、放言[ホウゲン]の読経[ドキョウ]とはつれないぞよ。無情ぞよ。又不知庵主[シュ]は三宗兼学[サンシュウケンガク]の善知識[ゼンチシキ]、一定天地感應[イチジョウアメツチカンノウ]の有難き大読経執行[シュギョウ]し、此中有[コノチュウウ]の苦[クルシ]み救ってくれる日は、けふか/\と新聞雑誌の西東[ニシヒガシ]、日がな一日[ヒトイ]さまよはぬはなく、八幡[ハチマン]まってゐたれども、待暮[マチクラ]し待[マチ]たれども、けふが日までも、只折々新作如来に香花[コウハナ]を手向[タムケ]ついでの木魚講釈[モクギョコウシャク]、それも段々は否気[イヤキ]になってか、何が無しに「西鶴は廣[ヒロ]うて浅い」とは無情[ツレナイ]ぞ。我れ悪からば悪いやうに、何故[ナゼ]親切にいうてはくれぬ。

あれ?ちょっと待ってくださいね……もしかして、この怨霊って、井原西鶴の霊なのでは?……こんなに読み進めて、いまごろ、気が付いたんですけど……w

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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