#861 人間のための用不用なんて、人間という虫けらの狭い料簡!
それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。
数多くの怨霊に取り憑かれ、ついに気絶してしまった巫女さん……。さまざまな介抱を試みていると、後ろから襟をつかまれ、引き倒されます。何奴!と見ると、「取次のオヤジ」が肩肘張って怒っています。お前は他人の介抱よりも自身の鼻先の腫れ物をヒルにでも吸わせるのが当然である!一体お前は批評の旨も知らないで、批評家気取りとは笑止の至りである!未来がどうの、人間の運命がどうの、説教の胡椒をふりかけたような言い分!お前の批評は、ひとりよがりの理想をかつぎまわっての杓子定規。真理だの、論理だの、表の看板は立派であるが、平等を知って差別を知らない。桜やスミレを目安にして、すべての花の美醜をわきまえる……。桜はよい花であろうか?誰の目にも美しかろうか?桜はたかが日本の花木で、そのほかの花木をきり倒せと誰が言った!そもそも批評を裁判と同じものと心得たのが間違いである。法律による動かぬ標準があっての裁判と、「時」と「所」とで動く標準を目安にした批評を同一とした気が知れぬ。シェークスピアにはない図だの、バイロンなどは話にならないだの、その知ったかぶりの顔つき、一目見て歯が浮くわい!
葦の茎の細い穴を通して天井を見ても、すべてを見渡すことができないことから、自分だけの狭い見識で、大きな問題を論じたり、判断することのたとえを「葭の髄から天井を覗く」といいます。
「皮相浅薄」とは、物の見方が浅く表面しか見ないこと、また、知識や学問などに奥深さがないことをいいます。
「嘴が黄色い」とは、ひな鳥の嘴が黄色いところから、年が若く経験が足りないことをいいます。
というところで、「第九回」が終了します!
次がいよいよ最終回の「第十回」です!
さっそく「第十回」へと移りたいのですが……
それはまた明日、近代でお会いしましょう!