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#860 その知ったかぶりの顔つき、一目見て歯が浮くわい!

それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。

数多くの怨霊に取り憑かれ、ついに気絶してしまった巫女さん……。さまざまな介抱を試みていると、後ろから襟をつかまれ、引き倒されます。何奴!と見ると、「取次のオヤジ」が肩肘張って怒っています。お前は他人の介抱よりも自身の鼻先の腫れ物をヒルにでも吸わせるのが当然である!一体お前は批評の旨も知らないで、批評家気取りとは笑止の至りである!未来がどうの、人間の運命がどうの、説教の胡椒をふりかけたような言い分!お前の批評は、ひとりよがりの理想をかつぎまわっての杓子定規。真理だの、論理だの、表の看板は立派であるが、平等を知って差別を知らない。桜やスミレを目安にして、すべての花の美醜をわきまえる……。桜はよい花であろうか?誰の目にも美しかろうか?桜はたかが日本の花木で、そのほかの花木をきり倒せと誰が言った!

そも/\貴公達が批評を裁判と同じものと心得たが間違[マチガイ]のはじまり。

「批評」と「裁判」の例えは、没理想論争第二ラウンドで、逍遥にかわって鷗外が「早稲田文学の没却理想」で使ってますね。詳しくは#715を参照してください。

刑法、民法と動かぬ標準があっての裁判と時と所とで動く標準を目安にしての批評と、同一[ヒトツ]にした気が知[シレ]ぬ麻布の狸穴[マミアナ]、八丈じきほどの大風呂敷ひろげて、かやうな作意[サクイ]はシェークスピヤには無い圖[ズ]、バイロンなどはとんとお話になりませぬ、と酢豆腐を氷どうふにして反[ソリ]かへった面[ツラ]つき、一目[ヒトメ]見て歯が浮くわい。

「刑法」に関しては#081で少しだけ紹介しています。「民法」は「刑法」に遅れること10年、1890(明治23)年に公布され、1893(明治26)年1月1日から施行されることになっていました。「人事、財産、財産取得、債権担保、証拠」の5編からなる日本最初の民法典は、フランス民法を範として作られましたが、公布後、日本古来の風俗習慣に反するという反対論がおこり、この民法はついに施行されずに終わりました。現行の民法は、主としてドイツ民法に範をとって1898(明治31)年に施行されたものです。刑法・民法ともに、その成立の背景には、フランスの法学者ギュスターヴ・エミール・ボアソナード・ド・フォンタラビー(1825-1910)の功績があります。「日本近代法の父」と呼ばれるボアソナードは、1873(明治6)年に来日し、司法省明法寮で教鞭をとります。明治新政府は刑罰権を政府で独占するための刑法制定を試みますが、これまでの律令と大きな違いがなかったため、ボアソナードに母国フランスの刑法・治罪法を模範とした刑法典・治罪法典を起草するよう命じます。また、明治初期の刑事手続では、これまでの制度を受け継いだ拷問による自白強要が行われていましたが、これを偶然目にしたボアソナードは自然法に反するとして直ぐさま明治政府に拷問廃止を訴え、1879(明治12)年に拷問制度が廃止されます。

麻布狸穴町の「狸穴」は、この地に生息していた猯[マミ](アナグマ)に因んでつけられたのが、のちに狸の字と混同されて狸穴と書かれるようになったのが有力な説です。ちなみに『梓神子』が書かれた1891(明治24)年当時の町名は、東京市麻布区飯倉狸穴町でした。

「酢豆腐」は落語の演目で、気取り屋の若旦那が、腐って酸っぱくなった豆腐を食べさせられますが、苦しみながらも知ったかぶりをして「これは酢豆腐といいます」と答えるところから、「知ったかぶり、半可通」という意味があります。

「氷豆腐」は鎌倉時代末期にうまれた日本古来の伝統食品で、硬めに作った豆腐を薄切りし、冬の夜に外で凍らせ、その後つるして陰干しする保存食品です。高野山でうまれた高野豆腐の系統と、信州・東北地方で生まれた凍[シ]み豆腐の系統があります。

なので「酢豆腐を氷どうふにして」とは、「知ったかぶりな態度を保持して」という意味でしょうね。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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