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#866 われはハルトマンの審美の標準をもって小説に及ぶ

それでは今日も森鷗外の「逍遙子の諸評語」を読んでいきたいと思います。

鷗外は、まず「小説三派」のおおまかな説明から始めます。「固有派」につづくのは……

折衷派は人を主とし、事を客とし、事を先にし、人を後にす。人を主とすとは、人の性情を活寫するを主とする謂[イイ]にて、事を先にするは、事によりて性情を寫さむとすればなり。此派にては人物は主觀なり。但し事と人との間には、主客後先あるのみなれば、人物必ず主觀なるにはあらず。サツカレエなど此派に屬したり。スコツト、ヂツケンス等は固有派と此派との間に跨りたり。物に譬[タト]へていへば、人に配して五感の如く、畫に配して一枝の梅の密畫の如く、學問に配して理學の如し。
人間派は人を因とし、事を縁とす、その因とするところは人の性情にして、その縁とするところは事變なり。此派の小説にては、先づ人を因とし、事を縁として一果を寫し、この果若くは他の事變をも合せて縁として更に一果を寫し、其果若くは他の新事件をも合せて縁として更にまた一果を畫き、終に大詰の大破裂若くは大圓滿に至りて休[ヤ]む。ギヨオテ、シエクスピイヤの如し。近世の魯獨[ロドク]などに此派多し。物に譬[タト]へていはむは、人に於ては魂の如く、畫に於ては油畫の梅の如く、學問に於ては哲學の如し。
以上は逍遙子が小説三派の差別なり。あはれ此けぢめをばいしくも立てつるものかな。今の文界に出でゝ、小説の派を分たむとせしもの多しといへども、何人か能くそが右に出でむ。われ嘗[カツ]てゴツトシヤルが詩學に據[ヨ]り、理想實際の二派を分ちて、時の人の批評法を論ぜしことありしが、今はひと昔になりぬ。程經て心をハルトマンが哲學に傾け、その審美の卷に至りて、得るところあるものゝ如し。その頃料[ハカ]らずも外山正一氏の畫論を讀みて、我[ワガ]懷[イダ]けるところに衝突せるを覺え、遂に技癢[ギヨウ]にえ禁[タ]へずして反駁の文を草しつ。かゝればわれはハルトマンが審美の標準を以て、畫をあげつろひしことあれども、嘗て小説に及ばざりき。今やそを果すべき時は來ぬ。いで逍遙子が批評眼を覗くに、ハルトマンが靉靆[メガネ]をもてせばや。

ドイツの作家ルドルフ・フォン・ゴットシャル(1823-1909)は1882(明治15)年に『詩学 - 近代的視点から見た文芸とその技法』を著します。鷗外がゴットシャルを精読していたのは留学中のミュンヘン時代(1886年3月8日~1887年4月15日)からベルリン時代(1887年4月16日~1888年7月5日)にかけてだと言われています。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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