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#999 60年後の没理想論争

1951(昭和26)年4月、雑誌『文学界』に、作家にして文芸評論家の正宗白鳥(1879-1962)が『「没理想」論争』を発表します。最後に、この60年後に書かれた「没理想論争」の回想のダイジェストを読んで、「没理想論争」を終わりにしたいと思います。

逍遥鷗外の「没理想」論争は、明治文壇史上、文壇に刺戟を与えた最初の意義ある論争であった。小説の方面で紅葉露伴が並び称せられたように、評論の方面で逍遥鷗外が並び立つようになったのは、この論争のためであった。当時新進の青年文士であった彼等の闘争は、目ざましかった筈だ。そして、当時の、少数の、文学好きの青年は、何が何やら分らぬなりに、興味をもって彼等の論争を見ていたのであろう。

今日になって批判的に読んで見ると、彼等自身もよく分らないで、ふとした思いつきからあんな議論をしたのに過ぎなかったと推察されるが、しかし、あの時分の片々たる凡庸な文学論とはちがって、新味ある啓蒙的論争であったと云えないこともない。

逍遥の所説は常識的であり、文章は美文調であるが、鷗外のは哲学的であり、文章も色艶をつけない理論一てん張りの調子である。

逍遥は弁解して、「没理想」は「無理想」の意味ではなく、むしろ、あらゆる理想を包含して余りあるの意味でありとし、シェークスピアの戯曲も造化の如く、あらゆる理想を包含して綽々として余裕あるように見ているのであると云い、その言訳がよく分るとともに、常識的であり、鷗外のは少し分りにくいだけに、意味が深そうで、えらそうに聞えるのである。面白い事には、この傾向は今日の文壇にまで続いているので、評論も哲学的難解用語を使役したりすると、重々しく見られ、同じ事でも分り易く云うと浅薄に見られるのである。

「没理想」論争は可成り長く続き、飽くまで相手を追究せんとする鷗外の、仮借なき酷しい太刀風に、逍遥も抵抗しがたくなり、くどくからんで来る野暮ったい議論を戯作者張りで洒落のめすような態度を採るようになった。……さすがの鷗外も苦笑したことであろう。この論争は当時の文壇の問題になったにちがいなかったし、青年文士は読んでその意味を捉えようと勤めたであろうが、直接に当時の文学に影響することはなかったのだ。空論として読まれていたようなものなのだ。

私は思う。何としても「記実」はいいことである。小説論に耽るよりもいい。……「早稲田文学」は「記実」を志し、「談理」に耽らざるべしと、編輯態度を明かにしていたが、この態度を小説の上にうつすと、現実の客観的描写を是とすることになるのである。……しかし凡庸な記実に終始しては文学価値は乏しい。……皮相な写実、凡庸な客観文学は詰らないに極っている。

「没理想」や「記実」を唱道した逍遥は、抱月などの強調した後年の自然主義には好意を寄せていなかったらしい。そして彼自身は、没理想的でない、有るがままの描写ではない戯曲、その他の作品を製作し発表した。また鷗外の方では、晩年には、自然主義にかぶれたような、ただの記実に過ぎないような、瑣末な小説を幾つも書いた。「先天の理想が無意識に踊り出す」ような作品は文壇に送り出なかった。却って、「渋江抽斎」や「北條霞亭」などのような、純記実的の、そして気品の添った作品が出現したのだから不思議だ。逍遥の脚本なんかよりも、むしろ、鷗外の晩年の史伝風の小説の方が、没理想的であるから面白い。

近年は、鷗外は過去の文壇の偶像の如く尊重され、逍遥はいちじるしく軽視されている。時代に連れてそれほどの懸隔が出来て来たのか。……私などは、晩年に全精力を注いだ逍遥の翻訳沙翁全集よりも、一生を通じてやすやすと翻訳したらしい鷗外のさまざまな西洋文学翻訳によって益を得たと云っていいのだが、しかし、学生時代に早稲田の講堂で、坪内逍遥生から、断片的に聞いた和洋の文学談、演劇観によって、私自身の知能の啓発されたことを私はおりおりに触れて追懐している。新しい思想の抱月よりも、頭の旧い逍遥の方が、直観がすぐれていて、その不用意の話にも含蓄があったと、私には追懐されるのである。逍遥は「和漢洋を打って一丸となす」と説いていたことがあったが、鷗外は「自分は一切の折衷主義に同情を有せない」と云っている。個性発揮の徹底的態度を好んでいたのであろうが、彼の作品は、強烈な個性発揮は見られないのである。昔、岩野泡鳴が鷗外逍遥漱石などを二流作家であると放言したことは、いつまでも私の頭に留っているが、これ等過去の文豪には、人生観察の上に、人生行路の上に妥協性があり、折衷主義態度があるように私には思われるのある。それがあればこそ、その時代に於て、多数者に奉られ、多数者に尊敬されるのであろうか。

さぁ、いよいよ、再び1891(明治24)年へと戻って、次の道へと歩き始めたいのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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