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#857 「第九回」は、突然現れたオジサンに、主人公が説教されるところから……

それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。

今日から「第九回」に入ります。

数多くの怨霊に取り憑かれ、ついに気絶してしまった巫女さん……。「第九回」はその後の話です。

巫[ミコ]が気絶に膽[キモ]をつぶして、さま/″\介抱のわが襟上[エリガミ]、だしぬけに後[ウシロ]より掴[ツカ]みて、無會釋[ムエシャク]に引倒[ヒキタオ]す思ひがけぬ狼藉[ロウゼキ]、何奴[ナニヤツ]のしわざ、と起[オキ]かへりて見れば、肩肘[カタヒジ]怒らして突立[ツッタチ]たる取次の老爺[オヤジ]、しほたれ袴の膝がしらぐにやりとはたいて、ムヅと座につき、やをれ、そこな煮[ニエ]きらぬ里芋和郎[サトイモワロ]。エゴイ手で餘計[ヨケイ]の周旋[オセッカイ]置いて貰ひましよ。諺にも其人[ソノヒト]にあらざれば法を説くな、といふ事あり。

どうやら、この取次のオヤジは、本物の人間のようですね……。

「えごい」は「えぐい」と同じ意味で、「アクが強くて、いがらっぽい」という意味です。初編が1776(安永5)年に刊行された全4編の江戸中期の川柳句集『誹風[ハイフウ]末摘花』には「芋の親 嫁にはえごく 当たるなり」という句があります。

釈迦が仏法を説くにあたり、相手の気質や状況などを考えて、それぞれにあったやり方で行ったという説話から、「人[ニン]を見て法を説け」という諺があります。

貴公[キコウ]の如きは、他人の介抱よりも自身が鼻の前[サキ]の腫物[シュモツ]、ちと蛭[ヒル]にでも吸[ス]はしめさるが當然[トウゼン]なり。巫[ミコ]は唯今[タダイマ]息閉[イキフサガ]って生気皆無[セイキカイム]のやうに見ゆれども、實[マコト]は盗人[ヌスビト]の晝寐[ヒルネ]、マホメットの山籠[ヤマゴモ]り、今が三昧修行の最中[サイチュウ]、糟[カス]もござれ麹[コウジ]もまゐれ、和漢洋古今の臓物[ゾウモツ]無差別[ゴッチャ]に打[ブチ]こみ、爰許[ココモト]やたら漬[ヅケ]製造の塩梅、いで其の成就の朝[アシタ]の風味は、山谷[サンヤ]が料理の庖刀[ホウチョウ]をもとヾむべし。

「無差別」と書いて「ごっちゃ」と読ませるのおもしろいですね!

ともしらずして此の巫[ミコ]生霊、死霊の為に取[トリ]つかれて本気を失ひ、狼狽[ウロタエ]て気絶したさうな、と鼻元推量[ハナモトズイリョウ]の介抱三昧。其按脈手附[アンミャクテツキ]気にくはぬ。一體[イッタイ]貴公批評家の本事[ホンジ]無く、批評の旨も知らいで、批評家気取り笑止の至[イタリ]なり。

な、なんか、意外な方向に話が進みましたね……

いにしえの偉大な作家の怨霊に対して、その作家論を論破して鎮めるのが、この作品の流れかと思ったら、ここで突然立場逆転!主人公のこれまでの批評自体に問題があると、突然現れたオジサンに説教される事態になりました!w

さて、どうなることやら……

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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