#028 明治が始まる微妙な半年間
1868年は明治元年なのですが、厳密にいうと、この年は、ほとんどが慶応4年で、明治は1868年の9月8日に改元されます。しかも、これは旧暦で、西暦に直すと10月23日です。
この暦が、すんごくめんどくさいんですよね!w
日本は、ずっと、太陰太陽暦を採用していました。これは月の満ち欠けで1ヶ月を計算する方法で、これでいくと、1ヶ月は、29〜30日になります。1年は365日ですから、毎年約11日くらいズレていくことになります。これを解消するのが、「閏月」で、3年に一度、13ヶ月にすることで解消していました!
4年に一度、「閏年」として1日だけ足して調整するグレゴリオ暦を採用したのは、旧暦明治5年12月2日です。「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」とする、いわゆる「明治改暦」が布告されたのは、旧暦明治5年11月9日です!
「来月」が「来年」になりますよ!年の瀬を飛ばして、正月になりますよ!と突然言われたわけです!w
バッタバタですよ!w
この改暦によって、旧暦明治5年12月2日の翌日が、新暦明治6年1月1日になりました!
この理由というものが、なんともケチくさい理由でして、明治になって公務員の給料が月給制に変わったからなんです!そして、明治5年は、「閏月」でした…
もう理由は、わかりますよね?w
12月は、たった2日間で終わり、そして「閏月」もなくなる。つまり、2ヶ月分の給与をカットできるんですよ!w
政府のケチくさい理由で民衆が翻弄されるのは、いつの時代も同じなんですかね?w
さて、江戸城の無血開城は1868年3月から4月にかけて行なわれ、同年7月に「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」において、江戸は東京に改称されます。そして、同年9月に京都を出発した天皇が江戸城にやってきたのは翌月の10月で、江戸城は東京城へと改称されます。
この、明治元年だけれども、まだ明治に改元されていない微妙な6ヶ月間で、まず新政府が何をやったかというと、「神仏分離」です!
1868年3月に「神仏判然令」を出し、神道を国教化しようとしたのです!
なぜならば、神道の頂点に立っているのが天皇で、その天皇を中心とした新政府になるのが、明治だからです!これだけは始まる前にやっておかなきゃいけなかったんですね!
神仏分離のための七か条は以下のようなものです。
1.神社の白木の鳥居で、塗ってあるものは白木に変えること
2.神社にある仏像は、村役人立ち会いの上故障のないよう寺院へ渡すこと
3.寺院にある神体も同様にして神社へ渡すこと
4.これらが終われば、寺院または社人より受取書を提出すること
5.このたび改めて仏号を付けた寺院は仏号を書いた掛け札を用意すること
6.もし神殿造りの場合は堂塔に造りなおすこと
7.神社の狗犬はそのままでよいが、唐獅子はすぐに取り除くこと
狛犬と唐獅子の違いなんて、今でも、わかりませんよね!w
除夜の鐘を打つのはお寺で…柏手打つのは神社で…「大本山」だったらお寺で「大社」だったら神社だったっけ…とか…まぁ、今でも神社とお寺の違いなんてそんなもんですよ!w
で、神仏分離令の結果、何が起こったかというと、寺に不満を持っていた民衆が、仏像・仏具をぶっ壊すという廃仏毀釈運動に発展しちゃったんですよね…新政府は、壊せなんて言ってないんですけどね…
そんな状況の後に、日本に来日したのが、アーネスト・フェノロサです。彼は、仏像・仏具を「文化財」と捉え、その保護に力を入れ、その結果、1897(明治30)年、古社寺保存法の制定へと繋がることになるのです。
ということで、今度こそ本当に、フェノロサの美術講義へと移りたいのですが…w
それは、また明日、近代でお会いしましょう!