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#954 理想とは、作家一個の理想にして、必ずしも当代の理想にあらざることあり

それでは今日も坪内逍遥の「没理想の由来」を読んでいきたいと思います。

作の年代によりて、シェークスピアを研究する方法の行はれてより、前に挙げたる疑問のうち、已に釋けたる者も尠からず。さはれ、其の為人は、今なほ依然としてエヂポスにあはざるスフインクスの如く然り。されば、テーンの如く、その表は帰納の論式により、その裏は演繹の推理法によりて、シェークスピアの理想を推度したるもあれば、ウルリチーの如く、ゲルヰナスの如く、すべて彼れが作の根底の理想をある一観念に帰宿せしめたるもあり。あるはまた近世の或一派の如く、シェークスピアの存在を疑ひて、彼れとベーコンとを異名同人たらしめんと試むるもあれば、エドワード、ドウデンのごとく、シェークスピアをして、浮世の辛酸を嘗め盡くしたる、一個の小菩薩たらしめんと欲するもあり。かれ是、これ非、おもひ/\の評釋、分別しやすいからず。わがシェークスピアを呼びて、小造化といひ、また名づけて没理想といふ、蓋し此の現象に因みてなり。
エドワード、ドウデンのいはく「若しミツケルアンゼロをとらへて、これと力を角することが、摸塑術の世界に於て、批評的想像の為し得べき至難至艱の業[ワザ]なりせば、シェークスピアを然[シカ]せん為には、尚一層の忍耐と一層確[タシカ]なる志気と、一層微妙なる智力とを要すべし。ミルトン、ミツケルアンゼロ、ダンテ等の如き大理想的美術家は、傲然として、能く覆蔵するにも拘らず、尚その本體を見[アラワ]すなり、ひとりシェークスピアは、假令理想家[アイデアリスト]なりきとするも、美術上にては、他にむきんでゝ寫實家なりき。彼れは、ほと/\窺ひがたきまでに、そが著作の背後にひそめり「The secret of nature have not more gift in taciturnity」と。これ實に、予が當初の想像よりも、更に幾十歩を進めたる評論の冒頭なり。何となれば、ドウデンは、巨細にシェークスピアが主観に入り、汪洋幾万言、百川の海に注ぐが如く論結して、われ能く大詩人が為人と、その技術の由りて来たる所とを看破せりと揚言したればなり。それはともあれ、こゝにドウデンが理想家といへるは、わが謂ふ理想家の義と相通へるに似てなほたがへり。蓋し、わが謂ふ理想家とは、或一時代に於ける、或一民族の最高の思想、最大の希望、及び最上の想像を現示する作家の義にもあらねば、必ずしも寫實家といふ語と直反対の義をも含まず、われは其の作の表面に、いちじるく作家自身をあらはし、或は其の作の人物の上に、自家が性癖の濃き陰影を見せ、或は其の作の全局に、おのれが形而上論より来たれる、因縁果報の理法を示せること、譬へば、バイロンの如く、ミルトンの如く、マアロウの如き作家をいへばなり。即ちわが謂ふ理想とは、作家一個の理想にして、必ずしも當代の理想にあらざることあり、またかならずしも作家が最美最高として崇敬すといふ意味の理想にもあらざることあり。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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