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#878 本来、底無きかあらぬかは問うに及ばず!

それでは……本日も、没理想論争前哨戦の逍遥サイドから振り返ってみたいと思います。今日は、『底知らずの湖』を振り返りたいと思います。

逍遥は、小説における人間派、詩におけるドラマに重きを置き、「人間派はいと狭き意義にていふドラマの結構なり」と言います。そして、ドラマの本体を底なしの湖に例えた話が『底知らずの湖』です。

話の内容は、昨夜に見た怪しい夢に関することです。

昨夜の夢に怪しき事を見たりけり。處[トコロ]はいづことも知らず湖かと見れば池、池かと見れば沼、沼かと見れば湖のようなるものこそありけれ。(#790参照)

あたりの山々には春夏秋冬が一斉に来ており、空には高い峰々、滝の音は雷のようです。

嗚呼是何[ナニ]という変幻魔界ぞ。一面[ヒトオモテ]にして百面を具え一相[イッソウ]にして万相[マンソウ]を兼たり。春かと思えば秋、秋かと思えば夏か冬か。笑えるが如く怒れるが如く悲めるが如く歓[ヨロコ]べるが如く俗なるが如く雅なるが如く正なるが如く奇なるが如し。咄々[トツトツ]何といふ怪現象ぞや。(#791参照)

極楽の浄土か、天上の楽園か……。雨露にさらされている高札を見ると「文界名所底知らずの池」と書かれています。

書きたる文字の形も定[サダ]かならぬを辛うじて「文界名所底知らずの池」とまでは読み得つ奉行の名も年月[トシツキ]も知るに由[ヨシ]無し。(#792参照)

で、この湖を、さまざまな人物が訪れます。道服を着た翁、仏教の僧侶、キリスト教の信者、古風な帽子をかぶった男、和冠をかぶった男、高帽子をかぶった紳士、八人の翁、美妙なる帽子をかぶった男……。宗教・歴史・文化を象徴しているであろう彼等は湖の美しさに魅了され、恐れ、様々な解釈をしたあと、不思議と忽然と姿をくらましてしまいます。最後に、「湖の精霊の主」が現れ、「我」に語りかけます。

嗚呼[オコ]の白痴[シレモノ]汝[ナンジ]此湖の景色を如何[イカ]さまにか見つる。(#804参照)

「我」は「ただありのままに美しくも恐ろしい」と答えます。そして「湖の精霊の主」は言います。

汝が国にも此湖に似たる古池はありけり。かしこに生[オ]つる松に近き松もありけり。松のことは仔細あればいはず。古池の事をいはんにその古池はじめは蛙[カワズ]といふものが只ひとつ飛[トビ]こめるのみなりけるが後[ノチ]には數萬人[スマンニン]の人が飛入りにきしかも終に充塞[ウマ]りしといふ噂をきかねば一定[イチジョウ]底知らずの池なるべし。本来底無きかあらぬかは問ふに及ばず。只其數万人を入れて尚餘[アマリ]あることの著[イチジ]るきを美として彼池[カノイケ]をも名所の一[ヒトツ]とせるのみ。(#804参照)

「本来底無きかあらぬかは問うに及ばず」、ここでは「有限・無限」は問うていないわけです。そして、このように結びます。

此湖の如きは過去現在ともに底を知らざるのみならず。千古[センコ]に渉[ワタ]りて底知らずなるべし。底知らずとは無量無数の異類を容れて餘[アマリ]あるを謂[イウ]なり。是此[コレコノ]湖をもて天下第一の名所とする所以なり。しかれども憐[アワレ]むべし。人間の世界にはいまだ此[コレ]にひとしき名所はあらず。只之に似たる大沼[オオヌマ]は英吉利[イギリス]に一ヶ所独逸[ドイツ]に一ヶ所あり。英吉利なるは道地[ドウチ]の沼(Shake-sphere)といひ独逸なるは驚天[ギョウテン](Geothe)の沼といふ。(#805参照)

ここでは、シェークスピアだけでなく、ゲーテも「底知らず」だと称えているのですが、以後の論争では、ゲーテの言及はほとんどと言っていいほどされません。

これが『底知らずの湖』のおおまかな流れなのですが……

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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