それでは……本日も、没理想論争前哨戦の逍遥サイドから振り返ってみたいと思います。今日は、『底知らずの湖』を振り返りたいと思います。
逍遥は、小説における人間派、詩におけるドラマに重きを置き、「人間派はいと狭き意義にていふドラマの結構なり」と言います。そして、ドラマの本体を底なしの湖に例えた話が『底知らずの湖』です。
話の内容は、昨夜に見た怪しい夢に関することです。
あたりの山々には春夏秋冬が一斉に来ており、空には高い峰々、滝の音は雷のようです。
極楽の浄土か、天上の楽園か……。雨露にさらされている高札を見ると「文界名所底知らずの池」と書かれています。
で、この湖を、さまざまな人物が訪れます。道服を着た翁、仏教の僧侶、キリスト教の信者、古風な帽子をかぶった男、和冠をかぶった男、高帽子をかぶった紳士、八人の翁、美妙なる帽子をかぶった男……。宗教・歴史・文化を象徴しているであろう彼等は湖の美しさに魅了され、恐れ、様々な解釈をしたあと、不思議と忽然と姿をくらましてしまいます。最後に、「湖の精霊の主」が現れ、「我」に語りかけます。
「我」は「ただありのままに美しくも恐ろしい」と答えます。そして「湖の精霊の主」は言います。
「本来底無きかあらぬかは問うに及ばず」、ここでは「有限・無限」は問うていないわけです。そして、このように結びます。
ここでは、シェークスピアだけでなく、ゲーテも「底知らず」だと称えているのですが、以後の論争では、ゲーテの言及はほとんどと言っていいほどされません。
これが『底知らずの湖』のおおまかな流れなのですが……
ということで、この続きは……
また明日、近代でお会いしましょう!