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#837 第五回は、主人公の戒めに対する怨霊の返事から…

それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。

第四回で、怨霊が自慢するかつての勧懲小説を否定しながらも、当今の明治24年の状況すら写せていない現今の文壇状況も誡める主人公。第五回は、それに対する怨霊の返事からです。

さる程に件[クダン]の幽霊のいふやう、汝[ナンジ]無縁の無粋者[ブスイモノ]、我は大通[ダイツウ]の霊なり。通一遍[トオリイッペン]のわからぬ亡者[モウジャ]と取[トリ]ちがへること、八幡無用なり。萬木[バンボク]眠れる山となっては、花の梢[コズエ]も雪の夕暮となりぬ。有為無情[ウイムジョウ]の娑婆[シャバ]のならはし、それほどのこと知らぬ我ならず。しかるに迷うて出[イ]づるには、深き譯[ワケ]のあることなり。知らずや浮世草子そも/\の昔、我、様命[サマイノチ]と彫[ホリ]つけたる筆に、世間の好色者[スキモノ]が腹を穿[エグ]り、目の前の痴戯[タワケ]しつくさぬ間[マ]に、五十年の元帳[モトチョウ]を廿五の暁[アカツキ]にけしの花の墓なき節々[フシブシ]、見聞くまゝに書[カキ]しるしけるが、所詮人間は此の慾に餓鬼道の苦患[クゲン]、思ふさま饜[アカ]ねばこそ、女は一代、男は二代、三代と同じ浅ましき戯れいつまでも止まぬことぞかし。富士の山の頂[イタダキ]に十五階の塔たてゝも、雲には届かぬが心残りとや、尻引[シリヒキ]といへる鳥が天の浮橋[ウキハシ]の掟も珍しからず。さてこそ少人[ショウジン]が喰[クイ]さしの桃のにほひ嗅[カイ]で見たくなりぬ。これも饜[アカ]ぬ人心[ヒトゴコロ]の常[ツネ]。さりとは此道[コノミチ]全盛の世や。これかれ切なるこゝろざしの大鑑[オオカガミ]、うつしぬる影は二つなれど、爰[ココ]戀[コイ]のわけしり、十年がた近道たどって、一生の分別つき雪花[ユキハナ]の詠[ナガメ]、いづれ無常のさま/″\書棄[カキステ]し文反古[フミホゴ]、うづたかく積りぬれど、此慾[コノヨク]黄金[コガネ]ほる佐渡の海より深く、浅間山の浅ましく凝りぬれば、邪執[ジャシュウ]の火燃[ヒモエ]果[ハテ]ぬ間[アイダ]、妄想の煙何[ナニ]消[キ]ゆべしや。されば末[スエ]二年生過[イキス]ぎたれど、藻[モ]しほ草かきも盡[ツク]さず、西鶴何々[ナニナニ]、松壽[ショウジュ]何々、置みやげまで残して果[ハテ]つ。されば其後[ソノノチ]、浮世草子の如来さまぢゃと信仰の好者道[スキモノミチ]さりあへず、喜捨銭[キシャセン]投ぐる音[オト]気味よく、立昇[タチノボ]る抹香の煙、君さまが伽羅[キャラ]の香[カ]と薫[クン]じけるを、怨[ウラメ]しや何處[イズレ]の馬の骨の琴爪[コトヅメ]、理屈づめの禮楽[レイガク]、譯[ワケ]なしに掻鳴[カキナ]らして、勧善懲悪の大砲[オオヅツ]引[ヒキ]いだして、無残や我[ワガ]持佛堂[ジブツドウ]打崩[ウチクズ]して棄[ステ]ける。それよりは紙魚[シミ]といへる蟲、わが手足を喰ひさき、正體[ショウタイ]は古本箱に押こめられ、元禄[ゲンロク]切って大通[タイツウ]の我れ、句読[ヨミキリ]わるく天[アメ]が下の解らぬ帳本[チョウホン]と呼ばれて、都合五十年が間、日の目見ぬ黒暗[クラヤミ]に、明[アカル]みの誉[ホマレ]埋[ウズ]めぬ。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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