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#834 今の作者は、文のカタチも学問も理想も古人より上手なり!

それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。

第四回は、「我慢」の上中下を論ずるところから始まります。我慢の「最大」は一切の善悪を受け入れて余りある状態で、我慢の無いことに等しい状態。我慢の「中[チュウ]」は衆善を容れる量はあるが、衆邪を破るには疾風のなかの枯葉を掃うに似ている。そして我慢の「下々[ゲゲ]」は、目の無い笊[ザル]のようで、善をも容れなければ悪をも容れない。ゆえに自分を尊び、思い上がる。巫女に乗り移った目の前の怨霊は、まさにこれで、どんなに論じても退散の効き目がない。ひとたび外郭を乗っ取り、写実派の旗を立てるのが目的成就の道理であるが、理想詩人はまだ誕生の産声をあげていない。最近起ころうとしている理想派の勧懲詩は怨霊の描いていた物語と似ているが、古来より似て非なるものが近所にあることが迷惑至極であるわけで…。近年の作家の時代物を、怨霊が描くような勧懲を横糸として儒教を縦糸とした時代物の復興と思うのは、いよいよもって勘違いである。

夫[ソ]れ人の煩悩は無數[ムスウ]なれど、古人[コジン]も申せし通り、最も著鋭[チョエイ]なるは四[ヨツ]なり。望[ホープ]と怖[フイヤ]と愛[ラブ]と憎[ヘトレッド]となり。望[ノゾミ]と怖[オソレ]とは二つながら未来に係[カカ]り、愛[アイ]と憎[ゾウ]とは過去の経験に基[モトヅ]く所重[オモ]なり。されば如何[イカ]ばかり暫時[シバシ]の間[アイダ]人の心目[シンモク]を娯[タノシ]ますげに見ゆるものも、此の四つに關[カン]せざる時は、永くは注意を繋[ツナ]ぎがたし。人は常に此[コノ]四つに動かされて躍[オド]るものなり。かるが故に正銘の愚人[タワケ]とチョチ/\あわゝの小兒[オサナゴ]との外[ホカ]は、現前[メノマエ]ばかりの事に満足してあるものにあらず。浅草へゆきて後[ノチ]よりも出掛[デカケ]る時の頑童[ワンパクモノ]の嬉しさうな顔を見ても知りたまへかし。況[イワ]んや夫婦の情合[ジョウアイ]を知り、少々人情を噛[カミ]わけ、日本帝国此行末[コノユクスエ]如何[ドウ]なることかと懸念に腦病[ノウビョウ]の薬さがす分際[ブンザイ]となれば、明治廿四年の事ばかりけろりかんとして見てあらうか。

「けろりかん」とは、ぼんやりとして、まったく無関心でいる様子のことです。

雪の白さ、年ごろ添うた亭主の身の丈、積って見ずとも知れたる事なり。しかる所當今[トウコン]の社会小説を見られよ、一概[イチガイ]には申されぬが、一方は十か八までは「よくってよ」の寫實[シャジツ]、一方は鶴の毛衣[ケゴロモ]を著[キ]た廿四年度の嬢さま、若旦那、兎角[トカク]に廿四年度を離れぬは止むを得ざるべき自然の沙汰なれども、特殊相に偏って普遍相がズブ無いゆゑ、昨日の目にはめでたけれど、今日の目にはをかしくなし。酷評すれば、場當[バアタ]りの政治小説と叔父[オジ]甥[オイ]の間柄なり。此儀[コノギ]は今の小説の女房の味知らぬ男、米の代知らぬ女に悦[ヨロコ]ばれ、舊幕[キュウバク]の頃とは違ひ、珠數[ジュズ]と同居せぬを見ても知るべし。人或[アル]ひは謂ふ、今の作者は下手[ヘタ]也[ナリ]、さるが故に大人讀まずと。大間違ひの沙汰也[ナリ]。下手にあらず、上手也[ナリ]。文の相[カタチ]のみをいはヾ、今の作者或ひは古人よりも上手なるべし。又学問も理想も上なるべし。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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