それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。
第四回は、「我慢」の上中下を論ずるところから始まります。我慢の「最大」は一切の善悪を受け入れて余りある状態で、我慢の無いことに等しい状態。我慢の「中[チュウ]」は衆善を容れる量はあるが、衆邪を破るには疾風のなかの枯葉を掃うに似ている。そして我慢の「下々[ゲゲ]」は、目の無い笊[ザル]のようで、善をも容れなければ悪をも容れない。ゆえに自分を尊び、思い上がる。巫女に乗り移った目の前の怨霊は、まさにこれで、どんなに論じても退散の効き目がない。ひとたび外郭を乗っ取り、写実派の旗を立てるのが目的成就の道理であるが、理想詩人はまだ誕生の産声をあげていない。最近起ころうとしている理想派の勧懲詩は怨霊の描いていた物語と似ているが、古来より似て非なるものが近所にあることが迷惑至極であるわけで…。近年の作家の時代物を、怨霊が描くような勧懲を横糸として儒教を縦糸とした時代物の復興と思うのは、いよいよもって勘違いである。
「けろりかん」とは、ぼんやりとして、まったく無関心でいる様子のことです。
ということで、この続きは…
また明日、近代でお会いしましょう!