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#879 「理想と造化」、「予言者と救世主」、「平等と差別」

それでは……本日も、没理想論争前哨戦の逍遥サイドから振り返ってみたいと思います。今日は、『小説三派』『底知らずの湖』につづいて「梅花詩集を読みて」を振り返りたいと思います。

詩人の筆に上[ノボ]る世界二ツあり。心の世界と物の世界となり。甲は虚の世界にして理想[アイデア]なり。乙は実の世界にして自然[ネチューア]なり。(#806参照)

逍遥は、詩人の世界を、「心の世界」と「物の世界」に分けます。「心の世界」は「虚の世界」にして「理想」であり、「理想」を旨とする者は「我を尺度」として「世間をはかる」。彼等を総称して「叙情詩人(リリカルポエト)」とし、天命を解釈する「一世の預言者」とし、「理想家(アイデアリスト)」とします。「叙情詩人」は、作者著大で、「理想」の高大円満であることを望み、一身の哀観を歌い、作者の極致が躍然し、万里の長城のようである。「物の世界」は「実の世界」にして「自然」であり、「自然」を旨とする者は「我を解脱」して「世間をうつす」。彼等を総称して「世相詩人(ドラマチスト)」とし、造化を壺中に縮める「不言の救世主」とし、「造化派(ナチュラリスト)」とします。「世相詩人」は、作者消滅し、「理想」の影を隠し世態の著しさを望み、小世態を描き、作者の影を空しくして、底知らぬ湖のようである、と言います。

逍遥が重きを置いているのは後者、ドラマチスト=ナチュラリスト=底知らずの湖のほうでしょうね……

のちに、逍遥は「烏有先生に答ふ」の「其の三」で、

「世相詩」といふ杜撰の造語の、甚だ不穏なるを覚ると同時に、わが解の不足にして誤解せらるべきを感じ、且つ叙情を虚とし、世相を実とし、二者を截然と虚実の左右に分離せしことの非なるをも覚りき。然り、我が当初の理想は、幾分か漁史が教へによりて変移したり。われはもはや虚実といふ漠然たる詞をもて二者を分かたず、大いに我が見処を改めたり。(#706参照)

と「虚実」という分け方を改めますが、

さもあらばあれ、叙情詩人の極大なるは、我れ今も尚ほ予言者と信じ、ドラマチストの極大なるをば、はた旧に依りて、不言の救世主と信ぜり。(#706参照)

極めて大いなる叙情詩人は予言者で、極めて大いなるドラマチストは不言の救世主であることは今も信じていると言います……。

逍遥は、「梅花詩集を読みて」で、我が国には短歌・長歌・謡曲・浄瑠璃等あるが、一身の哀観を詠ずる理想詩にとどまり、現実を解脱できていないと言います。

そして、

予は敢[アエ]て観念のみを崇めてそを歌詩[ポエトリー]なりといふものにあらず。技術と観念とを兼具[ケング]して始めて詩人あるを知れるものなり。(#809参照)

技術と観念を兼ねそなえてはじめて詩人である。ドラマチスト=不言の救世主=造化派[ナチュラリスト]は自我を脱して各性情を霊写すべき大任があるため大技量を要するが、叙情詩人=一世の予言者=アイデアリストは観念を有形・総合・描写すれば足りるため技能を比較的要しない、と……。

そして、最後に「平等と差別」について言及します。

差別は人間の妄念ならんが若し差別を棄てば平等もまた空しからん。平等と差別とは表裏相[ソウ]通じて離れざればなり。然るに今や君は其一を取りて呵々大笑の中[ウチ]に全く他[タ]の一を打棄[ダキ]し去りぬ。是豈平等に偏して差別を忘れたるものにあらずや。差別即平等の理[リ]を誤[アヤマ]れるにあらずや。(#812参照)

これが「梅花詩集を読みて」のおおまかな流れなのですが……

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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