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#889 「抽象」を棄て「結象」を取り「類想」を卑みて「個想」を崇める

鷗外は、逍遥が詩の分類に用いた「叙情・世相」は、ハルトマンの言う「叙情・叙事」に通じ、またゴットシャルの「理想・実際」にも通じるが、ハルトマンはゴットシャルの分類は認めないと言います。

彼(ハルトマン)は抽象を棄てゝ結象を取り、類想を卑みて個想を尊めり。嘗て美術の革命を説いていはく。革命者實際主義といひ、自然主義といふものを奉ずるは、其假面のみ。自然には個物ありて類なし。この故に美術を以て模傚となすは、固より謬見なれど、其謬見中にては自然を模傚せむとするこそ抽象したる類型を模傚せむとするに優りたれ。類には實なくして個物には實あり。この故に極致をみだりなりとして、實を美術の材にせむとするものは、おのづから類想を遠離[トオザカ]りて個想に近寄らむとす。革命者の勢力は其源、小天地想に在り。その妄なりとして棄てし極致は類の極致のみ。革命者は類の極致の外、別に個物の極致あることを知らざるなり。美は實を離れたる映象なれば、美術に實を取らむやうなし。想の相をなすとき、實に似たることあるは、偶然のみ。個物の美、類の美より美なるは、實に近きためにあらず。實の美なること類美の作より甚しきは、實の結象したる個物に適へること作に勝りたればなり。(審美學下卷一八八及一八九面)われおもふに所謂理想主義を叙情詩の門の專有に歸し、所謂實際主義を叙事詩の門の專有に歸する如きは恐らくは妥[オダヤカ]ならざる論ならむ。理想主義の類想を宗とする弊、實際主義の個想を宗とする利、いづれも叙情詩、叙事詩、戲曲の三門を通じて見るべきものなり。おもなる事を少し擧げて、詩の映象躍如たる理想主義の利と、瑣事[サジ]を數ふること多くして聽者を倦[ウ]ましむる實際主義の弊とも亦然なり。(#872#873参照)

何を言っているのかわからなそうで、少しだけわかった気になるのは、先に没理想論争第一ラウンドの、鷗外の「早稲田文学の没理想」で、何を言っているのかさっぱりわからないこんな一文を読んでいたからです。

戯曲に理想あらはれず、叙情詩若しくは小説に理想あらはるといふは、戯曲にあらはるゝ客観の相(所観)は叙情詩若しくは小説に於けるより多く、叙情詩若しくは小説にあらはるゝ主観の感は戯曲に於けるより多きがためにしかおもはるゝのみにして、其実は戯曲にも、叙情詩若しくは小説にも、作者の理想、作者の極致はあらはるゝなり。唯其理想は抽象[アプストラクト]によりて生じ、模型に従ひてあらはるゝ古理想家の類想にあらずして、結象[コンクレエト]して生じ、無意識の辺より躍り出づる個想なり、小天地想なり。大詩人の神の如く、聖人の如く、至人の如くおもはるゝは理想なきがためならず、その理想の個想なるためなり、小天地想なるためなり。(#675参照)

はじめは、ゴットシャルの「理想・実際」の別を否認するハルトマンの言説として登場したわけですね。

で、いよいよこのあと、没理想論争第一ラウンドに通じる、互いの「理想」観に関する相違点へと言及されるわけですが……

それに関しては……

また明日、近代でお会いしましょう!

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