それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。
第七回では、馬琴・西鶴に続いて近松門左衛門の霊が巫女に乗り移ります。近松いわく、ドラマの真の旨を得て、人間の本相を写しているのは自分を除いてほかにはいない。実用と美術とをひとつにした理屈詰めの評判は飲み込まぬ。理屈なしに面白くてこそ美術である。美術というものは実と虚と被膜の間にあるものである。もし実ばかりに偏れば、元禄時代でその命は尽きるが、虚のなかに実を書けば、花より近松と褒めるが証拠明白である。しかし、元禄から今日に至るまで、浄瑠璃の名はあれど、近松の大供養を行ない成仏させぬのは、なんとつれないことよ……。近松の長所はここであるという吹聴は、樽に水をはって口元の竹筒には極上醤油を注いでるような悪知恵の勝つ明治の当世のようで心懸かりである。あるいは日本のシェークスピアと、まくしかけての誉め言葉、嬉しいけれども、証拠をあげてもらえぬゆえ覚束ない。
篁村とは、饗庭篁村[アエバコウソン](1855-1922)のことです。
というところで、「第七回」が終了します!
さっそく、「第八回」へと移りたいのですが……
それはまた明日、近代でお会いしましょう!