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#843 一身の帰着、人間の命、造化の本性を知ろうとするのは、人間の大欲である

それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。

西鶴の霊が自身を冷遇する現在の文界に怒りを込めた恨み節をまき散らしたことに対して、怨霊に取り憑かれた主人公は、迂闊な答え方をしては物笑いになると謹んで答えようとします。人間の身体は有限で、妄想は果てしない。人生五十年、やり場のない限りなき妄想に苦しみ、昼夜夢を見ぬことない。昼の夢は妄想の掃きだめである。汚物の中から疫病も湧けば、肥料もできる。学問の大発明も昼の夢の結果であるし、大議論も大詩篇も夢の中の寝言である。

夢に関[セキ]無きが幸[サイワイ]か、不幸[フサイワイ]か、只表[ウワベ]のみを見ては解[ゲ]しがたき所あり。それはともあれ、凡[オヨ]そ晝[ヒル]の夢にては夜の夢と表裏[ウラハラ]にて、専らに過去のみを見ることは甚[ハナハダ]稀[マレ]なり。常住[フダン]の題目は重[オモ]に未来なり。例えば匹夫[タダビト]が今日[コンニチ]に労働を厭[イト]はぬも、学者が眞理を求むることに忙しきも、大小高卑[ダイショウコウヒ]の差こそはあれ、總[ナベ]て我身[ワガミ]若[モシ]くは人總體[ソウタイ]の未来を思ひやればなり。若し未来といふものを夢に見ずもあらば、如何なる頑[カタクナ]なる貪嗔痴[トンジンチ]も聖人[ヒジリ]の教[オシエ]を俟[マタ]ずして、たヾちに涅槃[ネハン]に入[イ]ることを願はん。涅槃の尊[トウト]きを證[ショウ]し得ぬは、此晝[ヒル]の夢を見厭[ミア]かねばなり。さすればたとひ其の陽[オモテ]は一意専念過去[センネンカコ]を想ふやうに見えたるも、其陰[ソノウチ]は所謂温故知新の沙汰にて、未来の料[リョウ]にとてすることなり。若したま/\さはなくて、一向に過去を夢に見て、過去に溺れたるものあらんには、さるは死にし子の齢[トシ]を算[カゾ]へ、行[ユ]きし水の帰らぬを歎[ナゲ]くものと擇[エラ]ぶ所無し。狂愚[キョウグ]の至極なり。仍[ヨ]りて思ふに、人間の大慾[タイヨク]の湊[アツマ]る所と大望[タイモウ]の凝る所とは、偏[ヒト]へに未来の二字にある歟[カ]。即ち未来相[ミライソウ]を知らんとするは(一身の帰着、人間の命[メイ]、造化の本性を知らんとするは、)人間究畢[キュウキョウ]の大欲[ダイヨク]なり。さて従来の経験によれば、凡そ知は比較を離れず、彼[カ]の十知の才といふも、一によりて十を推すことの外[ホカ]ならず。一無くば囘[カイ]が賢[ケン]を半[ナカバ]をだに得知[エシ]らじ。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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