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#955 すべてのはじまりは、明治24年の春のことなり

それでは今日も坪内逍遥の「没理想の由来」を読んでいきたいと思います。

何となれば、わが解によるときは、世を穢土と観ずるも、一種の理想なれば、世を楽土と観ずるも、一種の理想なり。人間は皆狂人なりと観るも、理想なれば、浮世は必竟夢局なりと信ずるも理想なり。所詮は作家が平生の經見學識等によりて、宇宙の大事を思議し、此の世界の縁起、人間の由来、現世間の何たる、人間の何たる、此の世界を統治する勢力、人間の未来の帰宿、生死の理、霊魂、天命、鬼神、等に関して覚悟したるところあるを、多少いちじるしくその作の上に現示したる、これをおしなべて理想といふなり。今の所謂寫實家も、ある一條の學説を、その総合の基礎として、さて實相を摸倣するものとせば、われはこれを理想家の中に加へて、没理想の、二派に分たんといふ意[ココロ]にはあらず、わが謂ふ理想の、見えたるか、見えざるか、といふ點より作物を観ば、かゝる格外の沙汰をも生ずべし、といふのみ。例へば、シェークスピアの如きは、自然の實相(現象界)を摸寫(直寫)せざる點よりいはば、世に謂ふ(むしろ審美學者の謂ふ)理想家なるべし、されど、われは、彼れを以て、没理想の派に属するものとす、その現象を實寫せず、また小理法を摸せざるところに、縹緲[ヒョウビョウ]たる神韵存じて、その器の廣きこと、大海のごとく、他の衆理想を埋没するに足ればなり。退きて按ずるに、理想[アイデアル]といふ語を、此くの如き義に用ふること、勿論、幾多審美學者が、古来用ひたる先例にはたがへるなり、明らかに、ヘーゲルが謂ふ理想[アイデアル]と殊なれば、ハルトマンの謂ふ所とも異なるべき也、さはれ、われはいまだ他に妥當なる代詞を得ざれば、假に用ひてシェークスピアの作を評しつ。尚このことは、森鷗外君に答ふる文中にていふべし。
叙してこゝに至れば、事枝葉にわたるに似たれど、わが没理想といふ詞を、シェークスピアの作に用ふる由来を、今一層明らかにせんために、此の一二年に於ける、わが心の變遷を略叙すること、全くの贅言にもあらざるべし。そも/\わが没理想といふ語を用ひはじめしは、二十四年の春のことなり。そはシェークスピアの研究に倦みはてたる小絶望の結果なりき。即ち「底知らずの湖」といふ一文章は、造化を湖に喩へ、シェークスピアを沼に喩へたるにて、わが没理想論のはじめなりき。さて、二十四年の二月下旬に至りて、シェークスピアに関する四五の近著を読みしが、其のうちに、前に挙げたるドウデンが「文學の解釋」といふことを論じたる、近業の文を見たり。

「文学の解釈」は、ダウデンが1888年に出版した『Transcripts and Studies』の一章です。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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