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#851 時代物を作るとき、風俗の「実」を望めど、人情の「実」は却って空し

それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。

「第八回」は、近松門左衛門の霊が嘆いた内容に対して、主人公が返事をするところから始まります。答えていわく、虚と実と被膜の間に美術ありという高説、面白く承った。「虚」は広くして限りなければ、一切の法相を覆って余りあり、「実」は狭くして鋭ければ、特殊な法相が躍如して飛動する。「実」は差別、「虚」は平等、「実」は個性、「虚」は通性、詩人の本領とは、この虚実の二字である。しかし、この二字の境を弁えるのは簡単ではない。そなたの作を見るに、おおかたは「虚」であり、虚妄が甚だしいのはシェークスピアにも優っている。名工の筆からなる神怪の絵は、形は「虚」であるが真に「実」である。

さるは畫工[ガコウ]と寫眞師[シャシンシ]とを一つとし、詩人と理學家[リガクカ]との差別を没[ナク]す。泥實[デイジツ]の至極[シゴク]なり。就中[ソノウチ]演劇の改良を云ふ者あり。

「演劇改良」に関しては、#600#647で少しだけ紹介しています。

形の實を重しとすること、理の實を重しとするよりも甚だし。彼等時代物の劇を作れば、力を専らに事實と風俗とに致し、年代の前後、言葉の品[シナ]に気を焦[イ]り、調度、衣裳[キツケ]の實ならんことを望めども、人情の實は却りて空し。例へば筑前守羽柴秀吉が厳然たる束帯の立姿[タチスガタ]して、さながらに幼主[ヨウシュ]三ばうし丸をかきいだき、紫の幔幕[マンマク]引[ヒキ]しぼらせてあらはれたるを見そなはせ。我れもとより眞物[ホンモノ]を見しことはなけれども、猿に似かよはぬばかりこそ眞物に似ぬ處[トコロ]なるべけれ。しかはあれども制限八時間、夜深[ヨフ]くるまでの芝居見盡[ミツク]して、首の骨いたく覚えて家に帰り、しかも胸に残れるはと問へば、さしひき感情、眞書太閤記[シンジョタイコウキ]読みし時とかはることなく、尚ほ残れるものありとせば、茶屋が辨當[ベントウ]の胃の腑につかえし溜飲のみ。鳴物[ナリモノ]を入れ、活人踊り、耳に目に心に訴へて、所詮物語本[モノガタリボン]読みたるとおなじくば、演劇の妙いづれの所にかある。さるは皆形の實に泥[ナヅ]みたる弊[ツイエ]にあらずや。足下[ソコモト]が作中に見えたる公平[キンピラ]もどきの和唐内[ワトウナイ]といふ男は、理窟をいへば、棒にも箸にもかからねど、橋がかりに仁王立[ニオウダチ]にたって、南無三紅[ナムサンベニ]が流れたとの愁歎[シュウタン]に男泣きの實は見えたり。また「重帷子[カサネカタビラ]」のおさい女郎も、理窟をいへば、女の化物[バケモノ]に似たれども、心の戀と肉の戀とをみづからも得わけぬ所に、親心の誠[マコト]見えて、常理[ツネノリ]をはなれし理外[リガイ]の理[リ]いちじるしく、夢幻[ユメマボロシ]のわきがたき所に、不可説法の眞如の影あり。

ということで、この続きは……

また来年、近代でお会いしましょう!

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