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#884 「虚と実」、「平等と差別」、「個性と通性」

それでは……本日も、没理想論争前哨戦の逍遥サイドから振り返ってみたいと思います。今日も、『小説三派』『底知らずの湖』『梅花詩集を読みて』につづいて『梓神子』を振り返りたいと思います。

滝沢馬琴そして井原西鶴の怨霊に次いで、巫女に乗り移るのは、近松門左衛門の怨霊です。近松は、こんなことを語ります。

皇国[スメラミクニ]の文学はその因[ヨ]りて来[キタ]る所いと邈[ハル]かなりと雖も、所謂ドラマとやらんの眞[マコト]の旨[ムネ]を得て、人間の本相[ホンソウ]を寫したるものは、斯くいふ門左衛門を除きて外[ホカ]にはあるまじ。……これは/\とばかりみよしのゝ花の雲、理窟は無しに面白うてこそ美術なれ、人情の通[トオ]った男に我等が作を理窟づめにするものなく、時代ちがひ、假名[カナ]ちがひ、手爾葉[テニハ]ちがひを咎むるものははきちがひでなくば気ちがひの沙汰ぞかし。(#847参照)

凡[オヨ]そ美術といふものは實[マコト]と虚[ウソ]と皮膜[ヒマク]の間にあるものなり。虚にして虚ならず、實にして實ならぬ其間[ソノアイダ]にこそ美術の趣味は籠[コモ]るなれ。吾等[ワレラ]此理[コノコトワリ]をよく守りて、虚實の間をゆきたるゆゑ、賢愚老幼[ケングロウヨウ]感ぜぬもの無し。……恨めしいぞよ、幾億萬[イクオクマン]と、信徒の数は増しながら、元禄以来けふまでも、只の一人も我が為に、大供養會[ダイクヨウエ]を執行[シュギョウ]して、成佛させてくれぬゆゑ、浄瑠璃の名はありながら、瑠璃光如来[ルリコウニョライ]の實はなく/\、中有[チュウウ]に迷ふ苦[クルシ]みを、察せぬかよなふ、つれなさよ。(#848参照)

主人公は、近松に対して、こんな返事をします。

げに虚は廣[ヒロ]うして限りなければ、一切の法相[ホウソウ]を掩[オオ]うて餘[アマリ]あるべく、實は狭[セモ]うして鋭[スルド]ければ、殊別[シュベツ]の法相躍如[ヤクジョ]として飛動[ヒドウ]すべし。實は差別、虚は平等、實は個性、虚は通性[ツウセイ]、詩人の本領[ホンリョウ]此の二字にとヾめたり。しかれども此[コノ]二字の境[サカイ]辨[ワキマ]へ易[ヤス]からず。……足下[ソコモト]の作を見るに、其形おほかたは虚にして、其虚妄の太[ハナハ]だしきことシェークスピヤの太[ハナハダ]しきにも優[マサ]りたり。さりながら眞實[マコト]より出[イデ]たる虚[ウソ]の中[ウチ]には、實具[ソナワ]りて、夢の中に現[ウツツ]あり。(#850参照)

形の實を重しとすること、理の實を重しとするよりも甚だし。彼等時代物の劇を作れば、力を専らに事實と風俗とに致し、年代の前後、言葉の品[シナ]に気を焦[イ]り、調度、衣裳[キツケ]の實ならんことを望めども、人情の實は却りて空し。(#851参照)

世間が足下[ソコモト]をほめて、日本[ミクニ]のシェークスピヤといふは、形の無き評[ヒョウ]にあるまじ。……序[ツイデ]ゆゑにきゝ申す、足下は中年まで専ら時代物ばかりを作り、而[シカ]も無稽荒唐[ムケイコウトウ]の書きざま、形の虚妄甚[ハナハダ]しく、……老後の作は打[ウッ]てかはりたる自然派の虚實を兼ね、人情専[ニンジョウセン]とかゝれしには、譯[ワケ]ばしあっての儀でござるか。此答[コタエ]うけたまはりたい。(#853参照)

ということで、これに対する近松の答えは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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