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#887 鷗外の「解釈」と「すり替え」による批評

それでは、今日から没理想論争前哨戦を鷗外サイドから振り返ってみたいと思います。

鷗外は、新文界の批評家として、石橋忍月、内田魯庵、野口寧斎を取り上げ、このたび新たに注目すべき批評家として坪内逍遥と幸田露伴を得たといいます。そして、今回は坪内逍遥の批評眼を覗こうといいます。

鷗外は「小説三派」における三分類を紹介したあと、分類名を突如として言い換えます。

夫[ソ]れ固有と云ひ、折衷と云ひ、人間と云ふ、その義は皆ハルトマンが審美學の中に存ぜり。今多くその文を引かむもやうなし。唯爰[タダココ]にハルトマンが哲學上の用語例によりて、右の三目を譯せば足りなむ。固有は類想[ガッツングスイデエ]なり、折衷は個想[インジイヅアアルイデエ]なり、人間は小天地想[ミクロコスミスムス]なり。(#867参照)

逍遥は三派に優劣なしと言っているのに、

然はあれど固有、折衷、人間の三目は逍遙子立てゝ派となしつ。類想、個想、小天地想の三目は、ハルトマン分ちて美の階級としつ。二家はわれをして殆[ホトンド]岐に泣かしめむとす。ハルトマンが類想、個想、小天地想の三目を分ちて、美の階級とせし所以は、其審美學の根本に根ざしありてなり。彼は抽象的[アプストラクト]理想派の審美學を排して、結象的[コンクレエト]理想派の審美學を興さむとす。(#868参照)

と、三分類に「階級」を設けます。

そして、逍遥は三分類の特色を、桜や梅など、それぞれの花の特色に例えますが、鷗外は……

逍遙子は想に縁[ヨ]りて派を立て、これを梅櫻の色殊[コト]なるに比べ、類想派の作家に向ひて、個想派の作を求めむは、ふりたる梅園に向ひて其花の櫻ならざるを笑ふ如しといひ、今の批評家を烏許[オコ]の風流雄なりといへり。夫れ逍遙子が一味の雨は、もろ/\の草木を沾[ウルオ]すに足りなむ。然れども類想と個想との別はおそらくは梅と櫻との別に殊[コト]なるべし。花に譬へていはゞ、類想家の作も個想家の作も、おなじ櫻なるべけれど、かなたは日蔭[ヒカゲ]に咲きて、色香少く、こなたは「インスピラチオン」の朝日をうけて、匂[ニオ]ひ常ならぬ花の如しとやいふべからむ。日蔭に生[オ]ふる櫻に向ひて、色香深き花を求めむは無理ならむ。その花の色香少きを評せむは、必ずしも無理ならじ。逍遙子は嵐に似たる批評家の花に慈[ジ]ならざるを怪めども、われは逍遙子が花に慈なるに過ぎて、風を憎むことの太甚[ハナハダシ]きを怪めり。若批評の上に絶て褒貶なかりせば、我文界はいとゞ荒野とやなりなむ。(#869参照)

すべての分類を、ひとつの花に例え、その花の咲く環境による「結果の特徴」とします。

そして、次に「梅花詩集を読みて」に言及するのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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