鷗外は、「逍遥子の諸評語」の最後に、逍遥の批評の手段について言及します。そして、この部分が、この先続く没理想論争の発火点となっています。
著作の本旨の所在を発揮することをもて専とすべし。
帰納的なるべし。
没理想的なるべし。
科学的なるべし。
標準に拘泥することなかれ。
手前勘の理想を荷ぎまはることなかれ。
嗜好にあやまたるることなかれ。
演繹的なることなかれ。
芋蟲一匹を解剖するにも、人間を解剖するに同じく、その間に上下優劣をおかぬ動物学者の心こそ頼もしけれ。
批評とはもと褒貶の謂いにあらず。
これに対して鷗外は言います。
逍遥は批評における「心構え」について述べていると思うのです。ところが、鷗外は、巧みに単語を切り貼り組み替えて、批評する上での「ものさし」の話にしてしまうのです。
逍遥は『梓神子』でこんなことを言います。
これに対する鷗外の言い分はこうです。
ここもまったく一緒です。逍遥は、批評する対象に対峙したときの、人間にとっての用不用を勘定しない、その「態度」について述べますが、鷗外は「解剖」という生物の「構造」の話を「進化論」という生物の「時間」の話に置き換え、成否を検証する際に設ける仮説の用、その経験科学の「前提」の話にすり替えるのです。
こうして、「没理想」に関する論争に常に取り巻く「帰納か演繹か」という問題も、この前哨戦に準備されるのです。
ということで、ここで没理想論争前哨戦をひとまず終えて、再び没理想論争第二ラウンドに戻りたいと思うのですが……
それはまた明日、近代でお会いしましょう!